SIPRI所長が警告「軍拡競争は抑止力にならない」
はじめに
世界の軍事費は10年連続で増加を続け、2024年には過去最高の2兆7,000億ドル(約400兆円)を記録しました。ロシアのウクライナ侵攻や中東紛争を背景に、各国が軍備増強に走る現在、「抑止力」という概念そのものが問い直されています。
ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)のカリム・ハッガグ所長は、軍拡競争が安全保障を強化するどころか、むしろリスクを増大させると警告しています。AI(人工知能)や自律型兵器の急速な発展が加わり、旧来の抑止理論では対処できない新たな脅威が生まれつつあります。
本記事では、ハッガグ所長の見解を軸に、現在の国際安全保障環境の変容と軍拡競争の問題点を分析します。
変容する国際安全保障環境
米国の指導力低下と同盟関係の動揺
冷戦終結後、国際秩序の基盤となってきた米国主導の同盟関係が揺らいでいます。ロシアによるウクライナ侵攻への対応をめぐる西側諸国の足並みの乱れや、中東政策における方針転換は、従来の安全保障の前提を大きく変えました。
SIPRIの分析によれば、同盟関係を軸とした旧来の国際秩序が揺さぶられる中、中東やアフリカなどで地域レベルの衝突が増加しています。これらの紛争の一部は世界規模にエスカレートする危険性をはらんでおり、安全保障環境は冷戦終結以来、最も不安定な状態にあるとされています。
地域紛争の連鎖とエスカレーション
2025年から2026年にかけて、国際安全保障をめぐる状況はさらに悪化しました。ウクライナ紛争の長期化に加え、中東ではイランをめぐる軍事的緊張が高まっています。
こうした地域紛争の連鎖は、単なる二国間問題にとどまらず、大国間の代理戦争の様相を呈しています。各国が自国の安全保障を優先する結果、軍事費の増大という「安全保障のジレンマ」が加速しているのが現状です。
新START条約失効と核軍備管理の崩壊
50年ぶりの「核の無法状態」
2026年2月5日、米ロ間で唯一残っていた核軍縮の枠組みである新START条約が失効しました。これにより、1972年の第1次戦略兵器制限条約(SALT I)以来、約50年にわたって維持されてきた核兵器配備を制限する法的枠組みが消滅したことになります。
新STARTは配備済み戦略核弾頭を双方1,550発以下に制限し、相互査察を通じた透明性の確保を義務付けていました。この条約の失効により、以下の深刻な影響が懸念されています。
- 透明性の喪失: 相互査察が停止し、相手国の核戦力に関する正確な情報が得られなくなる
- 軍拡競争の再燃: 配備数の上限がなくなり、核弾頭増産への歯止めが消える
- NPT体制への打撃: 核兵器国の軍縮義務不履行は、核不拡散体制の信頼性を損なう
ハッガグ所長の見解
カリム・ハッガグ所長は、新START失効後の状況について「抑止力の強化だけでは不十分であり、実効性のある軍備管理アプローチがなければ、抑止のリスクはむしろ増大し、安全保障を損なう」と指摘しています。
ハッガグ氏は2025年9月にSIPRI所長に就任した、エジプト出身の外交官です。1966年のSIPRI設立以来、アラブ・アフリカ出身者として初めてトップに就任し、2026年1月には国連の軍縮諮問委員会のメンバーにも任命されました。
同氏は特に、欧州が主導する新たな軍備管理の枠組みの構築を提唱しており、リスク低減、米国との再関与、そして将来の交渉への幅広い参加を重点課題として掲げています。
AI・自律型兵器がもたらす新たな脅威
技術革新と抑止理論の限界
AIや自律型兵器システムの急速な発展は、従来の抑止理論に根本的な疑問を投げかけています。SIPRIは2026年2月に「AI in Chinese, Indian and US Nuclear Postures, Norms and Systems」に関する研究を発表し、AIが核態勢に与える影響を分析しています。
従来の核抑止は「相互確証破壊(MAD)」という概念に基づき、報復能力の保持によって先制攻撃を抑止するものでした。しかし、AIが軍事判断に組み込まれることで、以下のリスクが生じます。
- 意思決定の高速化: 人間の判断を介さない攻撃判断が可能になり、エスカレーションの速度が加速する
- 誤認リスクの増大: AIシステムの誤判断が核使用の引き金になりうる
- 軍拡の不透明化: AI能力の評価が困難なため、相手国の脅威を過大評価しやすい
自律型兵器の規制をめぐる国際議論
2026年3月には、SIPRIとカナダ国防省が特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)の政府専門家会合でサイドイベントを開催し、「軍事AIの責任ある調達」に関する報告書を発表しました。
しかし、自律型兵器に関する国際的な規制の枠組みは依然として整備されていません。技術開発のスピードが規制の議論を大幅に上回っており、「規制なき軍拡」が進行しているのが現状です。
注意点・展望
「抑止力」への過信が招く危険
軍拡競争が抑止力にならないというハッガグ所長の警告は、歴史的にも裏付けられています。第一次世界大戦前のヨーロッパでは、各国が軍備を増強し同盟を結ぶことで平和を維持できると信じていましたが、結果は壊滅的な戦争でした。
現在の状況で特に懸念されるのは、世界の5つの地域すべてで軍事費が増加し、100カ国以上が前年より支出を増やしているという事実です。米国の2026年度国防予算では、研究開発費に1,790億ドル(前年比27%増)が計上されており、AI、自律型システム、サイバーセキュリティへの投資が急増しています。
今後の焦点
新START失効後、核軍備管理の空白をどう埋めるかが最大の課題です。ハッガグ所長が提唱する欧州主導の新たな枠組みが実現するかどうかは、米ロ関係の行方と中国の参加意向に大きく左右されます。
また、AI兵器の規制に関する国際合意の形成も急務です。技術の進歩は待ってくれません。2030年までに世界の防衛費が3兆6,000億ドルを超えるとの予測もある中、軍拡の連鎖を断ち切るための外交努力がこれまで以上に求められています。
まとめ
SIPRIのカリム・ハッガグ所長が指摘するように、軍拡競争は安全保障を強化するどころか、むしろリスクを増大させる可能性があります。新START条約の失効により、約50年ぶりに核兵器を制限する法的枠組みが消滅し、AI・自律型兵器の急速な発展が不確実性をさらに高めています。
「力による平和」という考え方は、短期的には一定の効果を持つかもしれません。しかし長期的には、軍備管理と外交的対話なしに持続可能な安全保障を実現することは困難です。世界が直面する安全保障環境の変化に対し、抑止力の強化と軍備管理の両輪で取り組む姿勢が求められています。
参考資料:
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