伊藤礼が描いた自転車の苦楽と日本の走行環境の今
はじめに
英文学者の伊藤礼さん(1933〜2023年)は、古希を目前にして自転車の楽しさに目覚め、その体験を味わい深いエッセーとして世に送り出しました。定年退職を記念に自宅から大学までの約12キロを走ったことがきっかけで、やがて1日80キロ以上を走破するほどの愛好家へと変貌を遂げています。
伊藤さんが作品の中でユーモラスに描いた「歩道の凸凹」「車道での幅寄せ」「罵声」といった体験は、日本の自転車走行環境が抱える課題そのものです。2026年4月に控える道路交通法の改正を前に、伊藤さんの視点を手がかりとして、日本の自転車環境の現在地と今後を考えます。
伊藤礼が残した自転車エッセーの世界
68歳からの自転車人生
伊藤礼さんは、作家・伊藤整を父に持つ英文学者で、日本大学芸術学部の教授を務めました。1991年には『狸ビール』で講談社エッセイ賞を受賞するなど、もともと軽妙な文章で知られた書き手です。
自転車との出会いは60代後半のこと。大学教授としての定年退職を前に、記念として自宅から勤務先まで手持ちのママチャリで走ってみたのが始まりでした。その後ロードバイクを購入し、5キロ、10キロと距離を伸ばしていく中で、自転車の虜になっていきます。
ユーモアに包まれた道路への怒り
伊藤さんの自転車エッセーは『こぐこぐ自転車』(2005年、平凡社)、『自転車ぎこぎこ』(2009年、平凡社)、『大東京ぐるぐる自転車』(2011年、東海教育研究所)の三部作として知られています。いずれも「思わずぐふふと笑ってしまうエレガントなおかしみ」に満ちた作品と評されています。
しかし、笑いの裏には切実な問題提起がありました。歩道を走れば路面の凸凹に辟易し、ルール通りに車道を走れば車やオートバイに幅寄せされ、罵声を浴びせられる。伊藤さんが悲憤慷慨した体験は、日本で自転車に乗る人なら誰もが経験する日常的な困難です。
日本の自転車走行環境が抱える構造的課題
「歩道も車道も走りにくい」というジレンマ
日本では長年、自転車は歩道を走るものという認識が広まっていました。1970年代の道路交通法改正で、自転車の歩道通行が例外的に認められたことがきっかけです。しかし本来、自転車は道路交通法上「軽車両」に分類され、車道の左側端を走行することが原則とされています。
この原則と現実のギャップが、伊藤さんが描いたような問題を生んでいます。歩道は歩行者との接触リスクがあり、路面も自転車走行に適した整備がされていない箇所が多数あります。一方で車道を走れば、自動車ドライバーから危険な幅寄せや追い越しを受けるケースが後を絶ちません。
自転車事故の現状
2025年の交通事故死者数は2547人で、統計が残る1948年以降で最少となりました。しかし自転車乗用中の死者は全体の12.3%を占めており、依然として無視できない割合です。東京都の2025年上半期データでは、自転車乗用中の死者は10人で、都内交通事故死者の14.7%に達しています。
特に注目すべきは、自転車対歩行者事故の構成比が増加傾向にある点です。2013年の3.4%から2023年には4.9%へと上昇しており、歩道上での自転車と歩行者の共存が難しくなっている実態を示しています。
2026年道交法改正がもたらす変化
自転車にも「青切符」制度を導入
2026年4月1日から、自転車の交通違反に対して「青切符」(交通反則通告制度)が導入されます。16歳以上の自転車利用者が対象で、危険な歩道通行には6000円の反則金が科されます。これまで自転車の違反は刑事罰(赤切符)か口頭注意にとどまっていましたが、新制度により取り締まりの実効性が大幅に高まると見られています。
青切符の対象となる主な違反行為には、信号無視、一時不停止、歩道での危険走行、右側通行などが含まれます。警察官がまず警告を行い、従わずに違反行為を続けた場合に青切符が交付される運用となります。
自転車を守る法整備も同時に
一方で、車道を走る自転車を保護する規定も新たに設けられました。改正道交法では、自転車を追い抜く自動車に対して、自転車との間隔に応じた安全な速度で走行することが義務付けられます。伊藤さんが体験した「幅寄せ」のような行為を法的に抑制する狙いがあります。
さらに2026年9月には、生活道路における法定速度が30km/hに引き下げられます。交通事故死者数全体の約半数が歩行中または自転車乗車中に発生しており、その約半数が自宅から500メートル以内という事実を踏まえた措置です。
注意点・展望
自転車の走行ルールが厳格化される中、「結局どこを走ればいいのか」という声は根強くあります。自転車専用レーンの整備率はまだ低く、車道と歩道のどちらを走っても危険を感じるという状況が一朝一夕に改善されるわけではありません。
法整備と並行して、自転車専用インフラの整備、ドライバーへの教育、そして自転車利用者自身のルール順守という三本柱での取り組みが求められます。ヘルメット着用率の向上も重要な課題で、自転車乗用中の死者の約半数が頭部損傷であり、非着用時の致死率は着用時の約1.9倍とされています。
まとめ
伊藤礼さんは、古希を前にして自転車の楽しさに出会い、そのユーモラスな筆致で日本の道路事情の課題を鮮やかに描き出しました。2023年9月に90歳で亡くなりましたが、三部作に記された「歩道も車道も走りにくい」という指摘は、いまなお解決されていない問題です。
2026年の道交法改正は、自転車の走行環境を改善する大きな一歩です。青切符制度の導入と同時に、自転車を守る法整備も進んでいます。伊藤さんが愛した自転車が、誰にとっても安全で楽しい乗り物となる社会の実現に向けて、制度と意識の両面からの変革が求められています。
参考資料:
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