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by nicoxz

キオクシア発の秘密計算技術が事業化へ、注目の背景を解説

by nicoxz
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はじめに

データを暗号化したまま分析や計算を行う「秘密計算」と呼ばれる技術が、いよいよ本格的な事業化の段階に入ろうとしています。キオクシアホールディングスの先端技術研究所で培われてきた完全準同型暗号(FHE: Fully Homomorphic Encryption)の技術が、カーブアウトによって誕生したスタートアップ「EmotionX株式会社」(東京・港区)を通じて社会実装される見通しです。同社は2026年5月からプライバシークラウドサービスの提供を開始する予定であり、日本発のプライバシーテック企業として大きな注目を集めています。

本記事では、秘密計算技術の基本的な仕組みから、EmotionX設立の背景、そして日本のプライバシーテック市場の現状と今後の展望までを詳しく解説します。

秘密計算とは何か——暗号化したまま計算する革新技術

秘密計算の基本概念

秘密計算(Secure Computation)とは、データを暗号化した状態のまま、統計処理やAI分析などの演算を実行できる技術の総称です。従来の暗号技術では、データを利用する際には一度復号(暗号を解除)する必要がありました。この復号の瞬間にデータが露出するリスクがあり、クラウド上での機密データの処理において大きな課題となっていました。

秘密計算では、データが暗号化された状態で計算が完了するため、データの中身が一度も露出することなく分析結果を得ることができます。これにより、個人情報や企業秘密を含むデータであっても、安全にクラウド上で処理することが可能になります。

3つの主要アプローチ

秘密計算を実現する技術には、主に3つのアプローチが存在します。

第一に、秘密分散(MPC: Multi-Party Computation) があります。これはデータを乱数で符号化し、複数のサーバーに分散して保持する方式です。各サーバーが部分的な計算を行い、結果を統合することで、元のデータを知ることなく計算結果を得ることができます。NTTやNECが積極的に研究開発を進めている分野です。

第二に、完全準同型暗号(FHE: Fully Homomorphic Encryption) があります。暗号化されたデータに対して、復号せずに加算や乗算といった任意の演算を実行できる暗号方式です。2009年にスタンフォード大学のクレイグ・ジェントリー氏が初めて実用的な方式を提案し、以降急速に研究が進んできました。EmotionXが事業化を目指しているのが、まさにこのFHE技術です。

第三に、TEE(Trusted Execution Environment) があります。Intel SGXなどのハードウェアに組み込まれたセキュアな領域でデータを処理する方式で、処理速度に優れる一方、ハードウェアへの依存度が高いという特徴があります。

完全準同型暗号の可能性と課題

FHEは理論上あらゆる計算を暗号化したまま実行できるため、「暗号技術の聖杯」とも称されてきました。しかし、実用化に向けてはいくつかの課題が存在します。最大の課題は処理速度です。暗号化したままの計算は、通常の計算と比較して数千倍から数万倍の処理時間を要するとされてきました。

近年ではCKKS方式をはじめとする新しいアルゴリズムの開発により、実数や複素数の計算にも対応できるようになり、機械学習への応用も現実味を帯びてきました。さらに、専用ハードウェアの開発による高速化も進められており、実用化への道筋が見えてきています。

EmotionXの誕生と日本のプライバシーテック市場

キオクシアからのカーブアウト——大企業技術の事業化モデル

EmotionX株式会社は、キオクシア株式会社の先端技術研究所で長年にわたって研究されてきたFHE技術を社会実装するために、2025年にカーブアウト(事業の切り出し)によって設立されたスタートアップです。キオクシアはフラッシュメモリやSSDの開発製造で知られる半導体メーカーですが、その研究部門ではメモリ技術を活かした暗号計算の高速化にも取り組んでいました。

このカーブアウトは、日本における大企業発スタートアップの新たなモデルケースとしても注目に値します。日本では民間の研究開発投資の約9割を大企業が担っているにもかかわらず、事業化されない技術の約6割が消滅しているという課題が指摘されています。NEDOも2026年度に「事業会社等が保有する革新的な技術を活用したカーブアウトによるディープテック・スタートアップ創出等促進事業」の公募を予定しており、国を挙げて大企業の埋もれた技術の事業化を推進する動きが加速しています。

EAGLYSとの共同開発で実用化を加速

EmotionXは、秘密計算プラットフォーム「DataArmor」を提供するEAGLYS株式会社と共同開発契約を締結しています。EAGLYSはソフトウェア面での秘密計算アプリケーション開発に強みを持ち、EmotionXはFHE処理を高速化する専用ハードウェア技術を有しています。両社の技術を組み合わせることで、暗号化データ上でのAI処理を実用的な速度で実現することを目指しています。

なお、キオクシアとEAGLYSは2023年1月の時点で秘密計算の高速化に関する共同開発契約を締結しており、ハードウェアレイヤーからソフトウェアレイヤーまでを連携させた高速化の実証実験に取り組んでいました。EmotionXの設立は、この共同開発の成果を商用サービスとして展開するための戦略的な一歩と位置づけることができます。

日本のプライバシーテック業界の広がり

日本では秘密計算を含む「プライバシーテック」分野の産業エコシステムが着実に形成されつつあります。2022年にはAcompany、EAGLYS、LayerXの3社によって「プライバシーテック協会」が設立され、秘密計算技術の社会実装を業界全体で推進する体制が整いました。

プライバシーテックには、秘密計算のほかにも「連合学習(Federated Learning)」「差分プライバシー(Differential Privacy)」「合成データ(Synthetic Data)」「ゼロ知識証明(Zero-Knowledge Proof)」といった技術が含まれます。これらの技術は、個人情報保護法の強化やGDPRなどの国際的な規制強化を背景に、企業のデータ利活用において不可欠な技術基盤として注目されています。

大手企業の動きも活発です。NECは秘密計算ソリューションを提供しており、NTTは秘密計算に関するISO規格の策定を主導しています。こうした大手と、EmotionXやEAGLYS、Acompanyといったスタートアップが共存する形で、日本のプライバシーテック市場は厚みを増してきています。

注意点と今後の展望

実用化に向けた課題

EmotionXのプライバシークラウドサービスは大きな期待を集めていますが、いくつかの点には注意が必要です。まず、FHEの処理速度は改善が進んでいるとはいえ、大規模なリアルタイム処理においては依然として課題が残ります。サービス開始後も、ユースケースに応じた継続的な性能最適化が求められるでしょう。

また、秘密計算技術は複数の方式が並立しており、安全性や性能の統一的な評価基準がまだ確立されていません。秘密計算研究会が安全性基準の策定を進めていますが、利用者が技術を選定する際の判断材料としてはまだ不十分な面があります。

広がる応用領域

秘密計算技術の応用が最も期待されている分野は金融と医療です。金融分野では、情報通信研究機構(NICT)が三菱UFJ銀行や三井住友信託銀行など5行と連携し、秘密計算を用いた不正送金検知の実証試験を実施しています。EmotionXも金融領域を最初のターゲットとしており、パートナー企業と共に次世代の金融データ基盤づくりを推進する方針です。

医療分野では、ゲノム情報と病歴データを秘密計算で安全に統合し、個人情報を保護しながら次世代医療の研究に活用するといったユースケースが想定されています。内閣府の戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)でも、秘密計算を活用したデータ解析が国家プロジェクトとして推進されており、官民連携による社会実装が進む見通しです。

まとめ

キオクシアからカーブアウトしたEmotionXが2026年春に完全準同型暗号(FHE)を用いたプライバシークラウドサービスを開始することは、日本のプライバシーテック業界にとって重要なマイルストーンです。データを暗号化したまま計算できる秘密計算技術は、個人情報保護の要請が高まる現代社会において、データ利活用とプライバシー保護を両立させる鍵となる技術です。

大企業の研究開発成果をカーブアウトによって事業化するモデルとしても、EmotionXの挑戦は今後の日本のスタートアップエコシステムに大きな示唆を与えるものといえます。EAGLYSとの共同開発、NEDOの支援事業、プライバシーテック協会の活動など、産官学が一体となった取り組みが進むなか、秘密計算技術がどのように社会に浸透していくのか、引き続き注目していきたいところです。

参考資料

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