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by nicoxz

AI時代の「SaaSの死」企業が内製化に舵を切る理由

by nicoxz
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はじめに

「まず課題があれば、どのSaaSを導入しようかではなく、自分でつくってしまえばいい」——こうした声が、いま日本の大手企業のマーケティング現場から聞こえ始めています。AIの急速な進化により、月額課金で利用する既存のSaaS(Software as a Service)に頼らず、自社で業務ツールを開発する「内製化」への転換が世界規模で進んでいます。2026年2月には、米Anthropicの新ツール発表をきっかけにソフトウェア関連株が暴落する「アンソロピック・ショック」が発生し、SaaS業界の構造変化が一気に現実味を帯びました。本記事では、なぜ「SaaSの死」が語られるようになったのか、その背景と実態、そして今後の展望を独自調査に基づいて解説します。

「アンソロピック・ショック」が突きつけたSaaS業界の転換点

1兆ドル消失の衝撃

2026年2月初頭、米Anthropicが自律型AIエージェント機能「Claude Cowork」を含む一連のAIツールを発表したことが引き金となり、世界のソフトウェア関連株に激震が走りました。ナスダック総合指数は約1.5%下落し、米国だけでソフトウェア株の時価総額が1週間で約1兆ドル(約150兆円)消失したと報じられています。Palantir CEOのアレックス・カープ氏が「AIはすでに企業向けソフトウェアの多くを代替できるレベルに達した」と発言したことも、市場の動揺に拍車をかけました。

この「アンソロピック・ショック」は日本市場にも波及しました。名刺管理SaaSのSansanが約17%の下落を記録し、クラウド会計のfreeeも14%安と大きく値を崩しています。CRM、会計ソフト、法律情報サービスなど、あらゆるSaaS関連銘柄が売り浴びせられる事態となりました。

なぜ市場はここまで反応したのか

市場が過敏に反応した背景には、AIエージェントがSaaSの「利用のされ方」そのものを変えるという構造的な懸念があります。従来のSaaSは「1ユーザーあたり月額いくら」というシート課金モデルが主流でした。しかし、AIエージェントが人間の代わりに業務をこなすようになれば、10体のAIエージェントが100人の営業担当者の仕事をこなすケースも想定されます。そうなると、100席分のSalesforceライセンスは不要になります。これは単なる一時的な値下がりではなく、SaaSビジネスの根幹である課金モデルへの脅威と受け止められたのです。

企業の「SaaS離れ」と内製化の加速

Klarnaの衝撃的な決断

「SaaSの死」を象徴する事例として世界的に注目を集めたのが、スウェーデン発のフィンテック企業Klarnaの動きです。Klarnaは2024年から2025年にかけて、長年利用してきたSalesforceやWorkdayを含む約1,200件のSaaS契約を解約し、AIを活用した自社開発のシステムへ全面移行する方針を打ち出しました。

具体的には、Salesforceに蓄積されていた顧客・取引・製品データをNeo4jグラフデータベースに統合し、社内AIでクエリ可能な環境を構築。必要なインターフェースはAIコーディングツール「Cursor」を用いて随時生成するという、従来のSaaS活用とは根本的に異なるアプローチを採用しました。CEOのセバスチャン・シェミャトコフスキ氏は「AIはすでに人間のあらゆる業務をこなせる」と公言し、従業員数を5,500人から3,400人へ約40%削減しています。

「バイブコーディング」が変えるソフトウェア開発

内製化を技術面から後押ししているのが、「バイブコーディング(Vibe Coding)」と呼ばれるAI支援型の新しい開発スタイルです。Cursor、Replit、Bolt.new、Lovableといったツールを使えば、プログラミングの深い知識がなくても、自然言語で指示を出すだけでアプリケーションを構築できます。

この市場の成長は驚異的です。CursorはARR(年間経常収益)20億ドルを突破し、Lovableは1年足らずで66億ドルの評価額に到達、Replitは90億ドルの評価額で資金調達を実施しました。Retoolの2026年調査によれば、企業の35%がSaaSをカスタムソフトウェアに置き換えていると回答しています。

ノーコード・ローコードとAIの融合

バイブコーディングと並行して、ノーコード・ローコードツールとAIの融合も進んでいます。生成AIを組み込んだノーコードプラットフォームを使えば、LLMを搭載した自社専用AIボット、社内データを活用した問い合わせ対応AI、業務を自動判断・実行するAIエージェントなどを、専門的なAI開発知識なしで構築できるようになりました。日本の国内市場は2028年に約2,700億円規模への成長が予測されており、2030年に約79万人と見込まれるIT人材不足への対策としても注目されています。

これは単なる「開発の効率化」ではありません。開発の主導権がIT部門から現場の業務担当者へと分散する、組織構造そのものの変革を意味しています。冒頭のマーケティング部門の声は、まさにこの変化の最前線にいる現場の実感といえるでしょう。

注意点と今後の展望

内製化の「落とし穴」——Klarnaの教訓

ただし、SaaSからの全面的な離脱には大きなリスクも伴います。先述のKlarnaは、AIによるカスタマーサポートの大規模自動化を進めた結果、複雑な顧客対応や感情面でのフォローが不十分となり、顧客からの苦情が増加。2025年には再び人間スタッフの採用を再開する事態に追い込まれました。また、バイブコーディングツールで生成されるアプリは機能的なプロトタイプとしては優秀ですが、認証処理のエッジケース、マルチテナンシー、決済Webhook連携、パフォーマンス最適化など、本番運用に必要な要件を満たさないケースが多いとされています。Fortune 500企業の83%は依然として従来型のIDE環境を選好しているという調査結果もあります。

価格モデルの再定義——シート課金の終焉

SaaS業界側も手をこまねいているわけではありません。IDCは2028年までにソフトウェア企業の70%が純粋なシート課金モデルから脱却すると予測しています。すでにIntercomやZendesk は、AIチャットボットが人間の介入なしに問題を解決した場合にのみ課金する「成果ベース課金」を導入。クレジット型のハイブリッドモデルを採用する企業も、2024年末の35社から79社へと急増しています。Gartnerは2026年までにエンタープライズSaaSの40%が成果ベース課金要素を含むようになると見込んでいます。「SaaSの死」とは、SaaSそのものの消滅ではなく、従来型ビジネスモデルの終焉と再定義と捉えるべきでしょう。

日本企業にとっての現実解

日本企業にとっては、欧米のような急激なSaaS離脱は現実的ではないかもしれません。深刻な人手不足や開発リソースの制約がある中で、段階的なアプローチが求められます。総務省の「2025年版情報通信白書」によれば、生成AIの活用方針を定めている国内企業は49.7%と半数に達しており、AIリテラシーの土壌は着実に整いつつあります。まずは定型的な業務ツールをAIで内製化し、ミッションクリティカルな領域は実績あるSaaSを継続利用するという「ハイブリッド戦略」が、当面の現実解となるでしょう。

まとめ

AIエージェントとバイブコーディングツールの急速な進化は、「課題があればSaaSを買う」という長年の常識を根底から揺さぶっています。アンソロピック・ショックによる市場の動揺、Klarnaに代表される大胆な内製化への転換、そして価格モデルの再定義——これらはすべて、ソフトウェア業界が大きな構造変化の渦中にあることを示しています。ただし、Klarnaの揺り戻しが示すように、AIによる全面代替にはまだ限界があります。重要なのは、「SaaSか内製か」の二者択一ではなく、自社の業務特性とリソースに応じて最適な組み合わせを見極めることです。AI時代のソフトウェア活用は、まさにこの「見極め」の力が問われるフェーズに入っています。

参考資料

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