ASEAN識者が再び中国選好 米国不信と東南アジア外交の現実
はじめに
東南アジアで「米国より中国を選ぶ」とする見方が再び過半に乗りました。シンガポールのISEASユソフ・イシャク研究所が4月7日に公表した「State of Southeast Asia 2026」では、米中のどちらかを選ぶよう迫られた場合、中国を選ぶとの回答が52%、米国は48%でした。数字だけ見れば僅差ですが、米中競争のただ中にある地域で、選好が再び中国側へ傾いた意味は小さくありません。
ただし、この結果をそのまま「ASEANが中国に寝返った」と読むのは雑すぎます。報告書もCNAの詳報も、地域の感情が一方向に固まったのではなく、依然として深く割れていると強調しています。東南アジアは安全保障では米国、経済では中国に深く結びつく国が多く、各国の事情も大きく異なるからです。本記事では、今回の52対48をどう読むべきか、なぜ中国優位が戻ったのか、それでも対中警戒が消えていない理由を整理します。
調査結果の読み方
52対48という「僅差」
ISEASの2026年版報告は、東南アジアが大国間競争の激化に強い懸念を抱きつつ、なお外交上の余地を守ろうとしている姿を描いています。CNAによれば、今回の調査は2026年1月5日から2月20日にかけて実施され、ASEAN全域で2,008人の識者や実務家が回答しました。そこで示された52対48は、中国が優位に立ったことを示す一方、決定的優勢ではなく「きわめて細い差」にすぎません。
実際、この設問はここ数年で何度も揺れています。CNAは、2025年には中国選好が47.7%まで下がっていた一方、2024年には50.5%で中国が上回っていたと整理しています。つまり東南アジアの対米中感情は毎年振れやすく、その年の経済環境、米政権のメッセージ、中国の振る舞いによって天秤が動きます。今回の結果も、長期的な「中国一強」ではなく、米国への期待低下と中国への相対的な戻りが重なった局面とみる方が正確です。
国別の割れ方
さらに重要なのは、地域平均より国別のばらつきです。CNAによれば、中国選好が強かったのはインドネシア80.1%、マレーシア68.0%、シンガポール66.3%、東ティモール58.2%、タイ55.0%、ブルネイ53.5%です。一方で、米国選好が強かったのはフィリピン76.8%、ミャンマー61.4%、カンボジア61.0%、ベトナム59.2%でした。ラオスはほぼ拮抗でした。
この並びは示唆的です。経済面で中国との結びつきが強い国ほど中国寄りになりやすい一方、海洋安全保障や同盟関係で米国との接点が強い国は対米傾斜を維持しています。ベトナムやフィリピンのように中国と地政学的摩擦を抱える国が米国を重視するのは自然ですし、逆にインドネシアやマレーシアのように経済実利を優先しやすい国では、中国との距離感が別の形で表れます。ASEANが一枚岩でないことが、この設問に最もはっきり出ています。
なぜ中国傾斜が戻ったのか
トランプ政権下の経済不安
今回の調査で目立つのは、米国への不安が安全保障より経済面で強まっていることです。CNAによれば、第2次トランプ政権下の対ASEAN関係について、改善を見込む回答は前年より減り、悪化を見込む回答は増えました。さらに、米国への好印象を損なう要因として最も大きかったのは、制裁や関税など通商措置への懸念で43.4%でした。東南アジアがいま最も警戒しているのは、軍事圧力だけでなく、予測しにくい経済政策だということです。
これは米国の影響力が消えたという話ではありません。むしろ、東南アジアにとって米国は依然として安全保障上の重要な外部勢力であり、投資や先端技術でも大きな存在です。ただ、貿易制裁や関税を政策手段として使う姿勢が強まると、輸出とサプライチェーンに依存するASEAN諸国は強い不確実性を感じます。中国への信頼が増したというより、米国の予見可能性が落ちた結果として、中国の相対的位置が上がった面が大きいとみるべきです。
それでも対中警戒は消えていない
一方で、中国への懸念が薄れたわけではありません。CNAは、ASEAN回答者の主要な対中懸念として、中国による加盟国の内政干渉が30.3%、南シナ海やメコンでの強圧的行動が28.0%、貿易や観光を通じた経済的威圧が22.1%に上ったと伝えています。つまり、中国を選ぶ回答が過半でも、その中国に対する不信は依然かなり強いのです。
この二面性こそ東南アジア外交の現実です。中国とは切っても切れない経済関係がある一方、主権や海洋権益、国内政治への影響には神経質になっています。実際、同じCNA報道では、中国が国際社会のために「正しい行動をする」と信頼する回答は39.8%で初めて3分の1を超えた一方、米国への信頼も44.0%となお上回っていました。東南アジアは中国寄りに見えても、全面的に中国を信認しているわけではありません。
注意点・展望
この調査を読むうえでの注意点は二つあります。第一に、対象は一般世論ではなく、政府、研究機関、企業、メディア、市民社会の「識者層」だということです。したがって、各国の政治エリートや政策コミュニティの空気を映す調査であって、国民投票ではありません。第二に、この設問自体が「どちらかを選べば」という仮定の質問であり、実際のASEAN外交はむしろ選ばないこと、距離を調整することに特徴があります。
今後をみると、東南アジアの立場はさらに難しくなります。米国が保護主義や対中競争を強め、中国が経済・外交攻勢を続ければ、ASEAN諸国は中立の旗を掲げながら実務では選別を迫られます。だからこそ、今回の52対48は「中国の勝利」より、「東南アジアがもう米国を自動的には選ばない」という警告として読む方が現実的です。米中双方に対し、地域の主導権ではなく予見可能性と尊重を求める声が強まっていると言えます。
まとめ
ISEASの2026年調査で、東南アジアの識者層は再び中国をわずかに上回る形で選びました。背景には、トランプ政権下の関税や制裁への懸念、米国の予見可能性低下への不安があります。ただし、その差は小さく、国別には大きく割れており、地域全体が中国へ大きく傾いたわけではありません。
本質は、ASEANが米中のどちらにも全面的に与したくないのに、外部環境がそれを難しくしている点です。中国への依存と警戒、米国への期待と不信が同時に存在する状態こそ、いまの東南アジアのリアルです。今後の焦点は、米中双方が地域に「選ばせる外交」を続けるのか、それとも選ばなくて済む余地を認めるのかにあります。
参考資料:
- The State of Southeast Asia: 2026 Survey Report – ISEAS – Yusof Ishak Institute
- ISEAS in the News: “State of Southeast Asia: 2026 Survey Report” – ISEAS – Yusof Ishak Institute
- Shifting sentiments: If forced to choose a side, Southeast Asia picks China over US - narrowly, survey shows - CNA
- The State of Southeast Asia: 2025 Survey Report – ISEAS – Yusof Ishak Institute
- ISEAS in the News: “State of Southeast Asia: 2025 Survey Report” – ISEAS – Yusof Ishak Institute
- Survey: China returns as South-east Asia’s preferred superpower as fears grow over Trump’s policies | Malay Mail
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