安全資産の金・米国債が軒並み売られる異例事態
はじめに
2026年2月28日に米国とイスラエルがイランへの軍事攻撃を開始してから約3週間が経過しました。通常、地政学リスクが高まる局面では「安全資産」とされる金(ゴールド)や米国債に買いが集まるのがセオリーです。しかし今回は、その常識が完全に覆される異例の展開となっています。
金価格は3月20日までの1週間で約11%下落し、1983年以来となる歴史的な週間下落率を記録しました。米国債にも売りが広がり、10年国債利回りは4.39%まで上昇しています。なぜ「有事の安全資産」が機能しなくなったのか、その背景と今後の見通しを解説します。
金価格が歴史的急落を記録した背景
開戦直後は教科書通りの「有事の金買い」
イラン攻撃が開始された2月28日、金先物価格は一時1トロイオンスあたり5,423ドルまで上昇しました。これは地政学リスクの高まりに対する典型的な安全資産への逃避行動であり、教科書通りの反応でした。
しかし、この上昇は長続きしませんでした。3月3日には一転して6%を超える急落を記録し、その後も下落基調が続きました。3月20日時点で金価格は4,497ドル付近まで下落し、開戦前の5,296ドルから14%以上の値下がりとなっています。
原油高がインフレ期待を押し上げ
金が売られた最大の要因は、原油価格の急騰がもたらしたインフレ期待の高まりです。ホルムズ海峡が事実上の封鎖状態となったことで、世界の石油供給の約20%が滞る事態となりました。WTI原油先物は開戦から2週間で47.3%上昇し、ブレント原油は2022年以来初めて1バレル100ドルを突破しました。
エネルギー価格の急騰は物価全体を押し上げます。2月の米生産者物価指数(PPI)は前月比0.7%上昇と市場予想を大幅に上回り、インフレ再加速への懸念が一気に強まりました。
利下げ期待の消滅が金の重しに
インフレ懸念の高まりは、米連邦準備制度理事会(FRB)の金融政策見通しを大きく変えました。短期金融市場が織り込む年内の利下げ回数は、2月27日時点の2.5回から3月中旬には0.9回まで急低下しました。さらに、一時はFRBが10月までに利上げに転じる確率が50%まで織り込まれる場面もありました。
金は利息を生まない資産です。金利が高止まり、あるいは上昇する環境では、利回りのある米ドルや預金に対して金の魅力は相対的に低下します。これが金売りを加速させた大きな要因です。
米国債も「安全資産」の役割を果たせず
利回り上昇が示す債券売り
地政学リスクの高まりは通常、米国債の買い材料となります。投資家がリスク資産から逃避し、安全な米国債に資金を移すためです。しかし今回は、米国債にも売り圧力がかかっています。
米10年国債利回りは4.39%まで上昇し、2025年7月以来の高水準に達しました。利回りの上昇は債券価格の下落を意味します。つまり、投資家は米国債を安全な避難先として買うどころか、むしろ売りに動いているのです。
インフレが債券の「敵」となる構図
債券売りの背景にあるのも、やはりインフレ懸念です。原油価格の高止まりが長期化すれば、物価上昇圧力が持続し、FRBは利下げどころか利上げを迫られる可能性があります。金利上昇局面では既発債の価格は下落するため、投資家は先回りして債券を売却する動きに出ています。
戦争が債券にとって買い材料ではなく売り材料となるのは異例の事態です。CNBCの分析によれば、今回は原油価格ショックによるインフレ圧力が、地政学リスクに対する安全資産需要を完全に上回っているとされています。
「有事のドル買い」が唯一機能
基軸通貨ドルに資金が集中
金にも米国債にも向かわなかった退避マネーは、どこに流れたのでしょうか。答えは米ドルです。開戦以降、米ドルは主要33通貨のうち31通貨に対して上昇し、ほぼ全面高の展開となりました。
ドル高が進行した理由は明確です。高金利環境の下で米ドルは利回りの面で優位性を持ち、さらに基軸通貨としての流動性も備えています。金が利息を生まないのに対し、米ドル建て資産は高い利回りを享受できるため、有事局面でもドルへの選好が強まりました。
ドル高が金をさらに圧迫
皮肉なことに、ドル高は金価格をさらに押し下げる要因ともなっています。金はドル建てで取引されるため、ドルが上昇すると他通貨の投資家にとって金は割高になります。この悪循環が金の下落を加速させました。
注意点・展望
過去の「安全資産神話」は万能ではない
今回の事態は、「地政学リスク=安全資産買い」という単純な図式が常に成り立つわけではないことを示しています。1970年代のオイルショック時にも、インフレ急騰が金利上昇を招き、債券市場が大きく下落した前例があります。
重要なのは、紛争の性質によって市場への影響経路が異なるという点です。今回は原油供給の中枢であるホルムズ海峡の封鎖という、エネルギー市場に直結する紛争であるため、インフレ経路が安全資産需要を圧倒する結果となりました。
今後のシナリオ
今後の金融市場を左右するのは、主に3つの要因です。第一にイラン情勢の停戦・長期化のシナリオ、第二にホルムズ海峡の通航再開の時期、第三にFRBの金融政策判断です。
オックスフォード・エコノミクスの分析では、原油高が年央まで続いた場合、世界のGDP成長率は0.6%押し下げられ、消費者物価は1%以上上昇する可能性があるとされています。一方で、早期の停戦が実現すれば原油価格が急落し、金や債券への買い戻しが一斉に進む展開も考えられます。
まとめ
イラン攻撃から3週間、金融市場では「安全資産」の常識が大きく揺らいでいます。金は1983年以来の週間下落率を記録し、米国債も売られるという、従来のリスクオフの教科書とは正反対の動きが続いています。
その根本原因は、ホルムズ海峡封鎖による原油高がインフレ懸念を急激に高め、FRBの利下げ期待を完全に消し去ったことにあります。投資家は今、安全資産を選ぶ際にも「インフレに勝てるかどうか」を最重要基準としており、利回りのない金よりも高金利の米ドルに資金を振り向けています。
今後は中東情勢の行方とともに、FRBの政策対応が市場の方向性を決定づけることになります。従来の「有事の安全資産」という固定観念にとらわれず、インフレと金利動向を注視することが重要です。
参考資料:
- Gold just had its worst week since 1983 - CNN Business
- Stocks, bonds and gold slump while Iran war rages - CNN Business
- Government bonds are having their safe haven status tested - CNBC
- 原油急騰でFRBの年内利下げ見通し消える - Bloomberg
- イラン攻撃から2週間が経過し世界の金融市場はどう動いたか - 三井住友DSアセットマネジメント
- Economic impact of the 2026 Iran war - Wikipedia
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