不眠を訴える人の7割は実は眠れている:脳波研究が明かす睡眠の錯覚

by nicoxz

はじめに

「昨夜はほとんど眠れなかった」「最近よく眠れている」――こうした睡眠の自己評価は、実は極めて不正確である可能性が高いことをご存知でしょうか。筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構(IIIS)の柳沢正史機構長らが2025年1月に発表した研究によれば、不眠を訴える人の約66%は脳波測定では睡眠に問題がなく、逆に「十分眠れている」と感じる人の約45%に客観的な睡眠不足や無呼吸症候群の疑いがあることが明らかになりました。この記事では、睡眠の自覚と実態のギャップがなぜ生じるのか、そしてそれが私たちの健康管理にどのような影響を及ぼすのかを詳しく解説します。

筑波大学の画期的研究:自宅での脳波測定が明かした真実

421人の睡眠を自宅で測定

従来の睡眠研究は睡眠ラボでの一泊測定が主流でしたが、この研究では421人の参加者が自宅で複数夜にわたり脳波(EEG)測定を行いました。同時に睡眠習慣や主観的睡眠体験に関するアンケートにも回答し、主観と客観のデータを照合しました。

この自宅測定は画期的な意義を持ちます。睡眠ラボという非日常環境ではなく、普段の寝室で測定することで、より実態に近い睡眠パターンを捉えることができるからです。研究チームは高精度の家庭用脳波測定装置を開発し、医療機関での測定と同等の信頼性を実現しました。

衝撃的な発見:主観と客観の大きな乖離

分析の結果、主観的評価は医師の診断をほとんど予測できず、客観的データは高い予測性能を示しました。具体的には以下の通りです:

  • 不眠を訴える人の66%:脳波測定では客観的な睡眠問題が見られない
  • 「十分眠れている」と感じる人の45%:客観的には睡眠不足または睡眠時無呼吸症候群(SAS)のリスクが疑われる

つまり、約7割の「不眠患者」は実際には眠れており、約5割の「快眠者」は実は睡眠に問題を抱えているのです。柳沢機構長は「自覚している睡眠時間や睡眠の質は『当てにならない』」と結論づけました。

不眠症の2つのタイプ:脳波が明かす本質的違い

タイプ1:主観的不眠症(睡眠状態誤認)

研究では不眠症患者を2つのグループに分類しました。1つ目は「主観的不眠症」グループです。このグループは脳波データ上は健常者と何ら違いがないにもかかわらず、自分の睡眠時間を過小評価していました。

これは「睡眠状態誤認」または「逆説的不眠症(パラドキシカル不眠症)」と呼ばれる現象です。患者は長時間眠れなかったと確信していますが、実際には正常な睡眠を取っています。ポリソムノグラフィー(PSG)検査では、入眠潜時(眠りにつくまでの時間)、覚醒回数、総睡眠時間のいずれも正常範囲内です。

このタイプの不眠症は、全不眠症患者の約5%を占めるとされています。興味深いのは、脳波分析で覚醒を示す高周波活動が中枢部や後部の脳領域で相対的に増加していることです。つまり、睡眠中にもかかわらず、脳の一部が覚醒に近い状態を保っているのです。

タイプ2:客観的不眠症

2つ目は「両方不眠症」グループで、こちらは脳波上も明確な問題が見られます。睡眠効率(SE)、中途覚醒時間(WASO)、入眠潜時(SOL)、覚醒後睡眠断片化(WASF)、REM睡眠時間などに変化があり、睡眠時間の過小評価はありません。

このグループは実際に連続的な覚醒期間を経験しており、誤認ではなく真の睡眠障害を抱えています。治療アプローチも主観的不眠症とは異なり、睡眠衛生の改善、認知行動療法、場合によっては薬物療法が必要です。

なぜ睡眠の自己評価は不正確なのか

睡眠時間の過大評価傾向

複数の研究が睡眠時間の自己報告の不正確さを指摘しています。ある研究では、客観的測定による平均睡眠時間が6時間だったのに対し、主観的報告は平均0.8時間(48分)長く見積もられていました。さらに、客観的睡眠時間が1時間増えるごとに、主観的報告は平均31分しか増加しませんでした。

つまり、人は一般的に自分が実際より長く眠ったと感じる傾向がありますが、睡眠時間の変化を正確に認識できないのです。

睡眠の質と客観的指標の弱い相関

睡眠の質に関しては、自己報告と生理学的測定の相関は一般的に弱いことが分かっています。夜間覚醒回数、入眠潜時、睡眠効率といった指標において、生理学的データと自己報告のピアソン相関係数は0.2以下でした。

唯一、総睡眠時間と睡眠効率は睡眠の質と最も一貫して関連していましたが、脳波スペクトル分析などの他の客観的指標は、健康な成人の自己報告睡眠の質を信頼性高く予測できませんでした。

心理的要因の強い影響

自己報告される睡眠の質は、実際の生理学的睡眠よりも、うつ病や不安症などの心理的・身体的苦痛の指標と強く関連しています。つまり、「よく眠れなかった」という感覚は、実際の睡眠の質よりも、その人の精神状態を反映している可能性が高いのです。

ただし、個人内の変動については自己評価が有効です。同じ人の睡眠が日によって変化する場合、入眠潜時、中途覚醒時間、総睡眠時間、睡眠効率の変化を本人は検出できます。つまり、他人との比較では不正確でも、自分自身の睡眠の良し悪しは感じ取れるのです。

見逃される睡眠時無呼吸症候群の脅威

高い有病率と低い診断率

筑波大学の研究が示した最も懸念すべき点は、「十分眠れている」と感じる人の約40~45%に無呼吸症候群の疑いがあることです。睡眠時無呼吸症候群(OSA)は成人の約5人に1人が罹患していますが、その85%以上が未診断のままです。

日本の研究によれば、OSAの有病率は男性で約9.4%、女性で約2.3%とされていますが、別の調査では約20%という高い数字も報告されています。持続陽圧呼吸療法(CPAP)を使用している患者は日本全体で約50万人にすぎず、膨大な数の未診断・未治療患者が存在することが示唆されています。

無呼吸症候群の深刻な健康リスク

OSAは単に睡眠の質を低下させるだけでなく、高血圧、心臓病、脳卒中、2型糖尿病などの深刻な健康リスクと関連しています。慢性腎臓病患者における研究では、OSAの有病率が非常に高く、腎機能とも関連していることが分かっています。

また、職業ドライバーにおける調査では、多くの未診断OSA患者が存在し、交通事故リスクが高まっている可能性が指摘されています。自覚症状がないまま重大な健康問題を抱えているケースが多いのです。

客観的睡眠測定の重要性と今後の展望

家庭用脳波測定装置の進化

筑波大学の研究が可能になった背景には、家庭で使用できる高精度脳波測定装置の開発があります。従来は医療機関での一泊検査が必要でしたが、今では自宅で複数夜にわたり測定が可能になり、より実態に近いデータが得られます。

スマートフォンアプリと連動した睡眠測定デバイスも普及しており、日常的な睡眠パターンの追跡が容易になっています。ただし、これらの消費者向けデバイスの精度は医療用機器には及ばないため、深刻な睡眠障害が疑われる場合は専門医の診断が必要です。

職場での睡眠管理と生産性

2025年7月の筑波大学の別の研究では、規則正しい睡眠パターンを維持する人ほど認知機能が高いことが示されました。また、79,048人の日本人労働者を対象にした調査では、客観的に測定された睡眠特性とプレゼンティーイズム(出勤しているが生産性が低下している状態)の関連が明らかになりました。

企業が従業員の睡眠を客観的にモニタリングし、適切な介入を行うことで、生産性向上と健康リスク低減の両方が期待できます。

AIと機械学習の活用

最新の研究では、脳波データの分析にAIと機械学習を活用し、睡眠段階の自動判定や異常検出の精度が向上しています。電極接触の問題に対しても頑健なアンサンブル手法が開発され、家庭測定の信頼性が高まっています。

また、デジタルフェノタイピング(デジタル技術による個人の特性分析)により、主観的不眠重症度と活動量計ベースの客観的睡眠測定の乖離を分析し、心理的・生理学的洞察を得る研究も進んでいます。

睡眠改善のための実践的アドバイス

主観的不眠症への対処

睡眠状態誤認型の不眠症には、認知行動療法が効果的です。睡眠日誌をつけ、客観的なデータ(可能であればウェアラブルデバイスの記録)と主観的感覚を比較することで、誤認を修正できます。

睡眠・覚醒サイクルの正常パターンについて教育を受けることで、不安が軽減されることもあります。場合によっては、医師の指導の下で鎮静催眠薬を使用することもあります。

客観的不眠症への対処

真の睡眠障害がある場合は、以下の睡眠衛生の改善が重要です:

  • 就寝・起床時刻を一定に保つ
  • 寝室を暗く、静かで、涼しく保つ
  • 就寝前のカフェイン、アルコール、重い食事を避ける
  • 日中の適度な運動(ただし就寝直前は避ける)
  • 就寝前のスクリーンタイムを減らす

これらの対策で改善しない場合は、認知行動療法や薬物療法が検討されます。

無呼吸症候群のスクリーニング

以下の症状がある場合は、睡眠時無呼吸症候群の可能性があります:

  • 大きないびき(特にパートナーから指摘される)
  • 夜間の窒息感や息切れ
  • 日中の過度の眠気
  • 起床時の頭痛
  • 集中力の低下

これらの症状がある場合、特に「よく眠れている」と感じていても、医療機関での睡眠検査を受けることが推奨されます。

まとめ

筑波大学の研究は、私たちが自分の睡眠について驚くほど正確に把握できていないという事実を明らかにしました。不眠を訴える人の7割近くは実際には問題なく眠れており、逆に快眠を自覚している人の半数近くに睡眠不足や無呼吸症候群のリスクがあります。

睡眠の自己評価は心理状態に強く影響され、客観的な睡眠の質を反映していないことが多いのです。特に懸念されるのは、自覚症状のない睡眠時無呼吸症候群が放置され、深刻な健康リスクにつながる可能性です。

今後、家庭用脳波測定装置やAI分析の進歩により、客観的な睡眠評価が日常的に行えるようになるでしょう。自分の睡眠を正確に把握し、必要に応じて専門医の診断を受けることが、真の健康管理につながります。「よく眠れている」という感覚だけに頼らず、客観的データに基づいた睡眠管理を心がけましょう。

参考資料:

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