アラブの歌姫たち、民衆の苦悩に寄り添う歌声の系譜
はじめに
戦争と革命と圧政を繰り返した戦後の中東の歴史は、耐えがたい苦痛と悲哀を人々にもたらしました。その涙に寄り添い、ひとときの陶酔をゆるし、傷を癒やしたのがアラブの歌姫(ディーバ)たちの声です。
その代表的存在であるエジプトのウンム・クルスームが亡くなって50年余り。エジプト文化省は2025年を「ウンム・クルスームの年」に指定し、数々の記念イベントを開催しています。アラブ世界で今なお愛され続ける女性歌手の系譜を追います。
ウンム・クルスーム:「東方の星」
ナイルの村から世界へ
ウンム・クルスームは1904年頃、エジプトのナイルデルタ地方の小さな村に生まれました。父から伝統的なコーラン読誦法を学び、6歳頃から村の祝い事で歌い始めたのがキャリアの始まりです。非凡な記憶力と芸術的才能を早くから認められ、1922年にカイロへ上京しました。
カイロでは蓄音機やラジオ、映画といった新しいメディアの普及と歩調を合わせるように人気が高まり、作曲家ムハンマド・アブドゥルワッハーブとともにエジプト音楽の黄金時代を築き上げました。
アラブ民族主義との共鳴
ウンム・クルスームの名声はやがて政治の世界にも波及します。愛国主義者・民族主義者であった彼女は、後のエジプト大統領ガマール・アブデル・ナセルのアラブ民族主義を強く支持しました。カイロの「アラブの声」ラジオ局を通じて、彼女の歌声はアラブ世界の隅々にまで届けられています。
毎月第1木曜日のコンサートは、アラブ全域でラジオ中継され、放送中は街から人が消えるとまで言われました。彼女の歌は単なる娯楽を超え、アラブ民族のアイデンティティそのものとなっていたのです。
没後50年、今も生きる歌声
1975年に亡くなった後も、ウンム・クルスームの楽曲はエジプトのラジオ番組で定番として流れ続けています。「オリエントの星」「ナイルのナイチンゲール」「黄金ののど」「五色の声をもつ歌手」など数多くの称号を持ち、アラブ音楽史上最も偉大な歌手として不動の地位を占めています。
没後50年を記念して、エジプト文化省は2025年を「ウンム・クルスームの年」に指定。記念コンサートや展覧会、ドキュメンタリー上映など、彼女の業績を振り返るイベントが各地で開催されています。
アラブの歌姫たちの系譜
フェイルーズ:レバノンの宝
レバノン出身のフェイルーズは、ウンム・クルスームと並ぶアラブ音楽界の二大巨星です。「厚いベルベットのような声」と評される深く豊かな歌声は、一度聴いたら忘れられないと言われます。
フェイルーズの音楽はレバノン内戦(1975〜1990年)の間も人々の心の支えとなり続けました。宗教や政治的立場を超えて愛される彼女の存在は、分断されたレバノン社会において数少ない共通のシンボルでした。レバノンでは「朝はフェイルーズの歌で始まる」という言い回しがあるほど、日常に溶け込んだ国民的存在です。
ワルダ・アル・ジャザイリア:「アラブのバラ」
アルジェリア出身でエジプトを拠点に活躍したワルダ・アル・ジャザイリアは、「アラブのバラの花」と呼ばれた伝説的歌手です。半世紀以上にわたりアラブ音楽界を牽引し、2012年に亡くなるまで現役を貫きました。
アルジェリア独立戦争の時代には愛国歌を歌い、祖国の独立に精神的な支柱を与えました。その後はエジプトに移り、ロマンティックな楽曲で広くアラブ世界のファンを魅了しています。
アスマハーン:悲劇の歌姫
シリア出身のアスマハーンは、ウンム・クルスームと人気と実力を二分した才能豊かな歌手でした。映画女優としても活躍しましたが、1944年にわずか31歳で自動車事故により命を落としています。
短い生涯にもかかわらず、その透明感のある歌声は今も多くのファンに愛されており、アラブ音楽の古典として評価されています。
現代のアラブ歌姫たち
ナンシー・アジュラム
1983年レバノン生まれのナンシー・アジュラムは、現代アラブポップの象徴的存在です。15歳でデビューし、アルバムは10枚以上をリリース。中東で最も売れている音楽アーティストの一人です。
2010年FIFAワールドカップではアラビア語版「ウェイヴィン・フラッグ」のシンガーに選ばれ、世界的な知名度を獲得しました。アラブ世界の音楽コンテストでは2004年から3年連続で優勝するなど、圧倒的な人気を誇ります。
エリッサ
レバノン出身のエリッサは、アラブ世界で最大のセールスを記録する女性歌手の一人です。3度のワールド・ミュージック・アワードを含む数多くの賞を獲得しています。感情表現豊かな歌声と洗練されたポップサウンドで、若い世代のアラブ人を中心に絶大な支持を集めています。
歌姫たちが果たした社会的役割
民衆の感情の代弁者
アラブの歌姫たちに共通するのは、単に音楽的な才能だけでなく、民衆の感情の代弁者としての役割を担ってきたことです。植民地支配からの独立、戦争、政治的抑圧、経済的困窮。こうした苦境の中で、歌姫たちの声は人々にとって逃避でもあり、連帯の象徴でもありました。
女性のロールモデル
保守的な社会規範が根強い中東において、歌手として公の場に立つこと自体が革新的な行為でした。ウンム・クルスームは男装して舞台に立つことから始め、やがてアラブ世界で最も影響力のある人物の一人となっています。後続の女性歌手たちにとって、彼女たちは芸術的な先駆者であるとともに、女性の社会進出のロールモデルでもあります。
デジタル時代への継承
SpotifyやYouTubeの普及により、ウンム・クルスームやフェイルーズの楽曲は新しい世代にも聴かれるようになっています。ナンシー・アジュラムやエリッサといった現代の歌手たちも、SNSを通じてファンと直接つながり、アラブ音楽の魅力を世界に発信しています。
まとめ
ウンム・クルスームの没後50年を経ても、アラブの歌姫たちの系譜は途切れることなく続いています。エジプトのウンム・クルスーム、レバノンのフェイルーズ、アルジェリアのワルダ。彼女たちが紡いだ歌声は、中東の激動の歴史の中で民衆の苦痛と悲哀に寄り添い、癒やしと陶酔を与え続けてきました。
現代のナンシー・アジュラムやエリッサもまた、その伝統を受け継ぎながら、デジタル時代にふさわしい形でアラブ音楽を進化させています。50年前に灯されたウンム・クルスームの歌の火は、今もアラブ世界を照らし続けています。
参考資料:
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