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by nicoxz

戦時中の徴兵忌避者たち 知られざる抵抗の実態

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はじめに

太平洋戦争の時代、「お国のために戦う」ことが当然視され、兵役を拒むことは「非国民」の烙印を押される行為でした。しかし、すべての人が戦場に赴くことを受け入れたわけではありません。憲兵の追跡から逃れて放浪し、あるいは自らの指を斧で切断してまで徴兵を免れようとした人々がいました。

こうした徴兵忌避者の存在は、長い間歴史の闇に埋もれてきました。彼らは当時「非国民」として社会から排除され、戦後もその経験を語ることが難しい立場に置かれたためです。本記事では、日本における徴兵忌避の歴史と手段、そしてその行為が現代に問いかける意味について解説します。

日本の徴兵制度と「在郷軍人」の存在

明治から始まった国民皆兵

日本の徴兵制度は1873年(明治6年)、太政官布告による徴兵令の発布とともに始まりました。満20歳の男子は徴兵検査を受け、合格者の中から「常備軍」として3年間の兵役に服すことが求められました。その後4年間は「後備軍」として戦時召集の対象となり、満17歳から40歳までの男子は「国民軍」の兵籍に登録されました。

しかし制度の初期には、実際に徴集される割合はごく一部に過ぎませんでした。日清戦争期でも全体の約5%程度しか徴集されなかったとされています。1889年の大日本帝国憲法制定と徴兵令の大改正により、徴兵検査に合格した男性のほとんどが実際に徴兵される制度へと変わっていきました。

在郷軍人と未教育補充兵

徴兵検査に合格しながらも、実際には入営経験のない「在郷軍人」が太平洋戦争前まで数多く存在していました。1910年(明治43年)には全国の在郷軍人団を統合する帝国在郷軍人会が創設されています。この組織には入営・従軍歴を有する予備役・後備役だけでなく、抽籤に外れて入営しなかった補充兵も含まれていました。

戦局が悪化するにつれ、こうした在郷軍人や未教育補充兵にも次々と召集令状(いわゆる赤紙)が届くようになります。それまで戦争と距離を置いていた人々が、突如として戦場に送られる現実に直面したのです。

徴兵忌避の手段と実態

合法的な方法の変遷

徴兵制度の初期には、270円(現在の価値で約270万円)の代人料を納めれば兵役を免除される仕組みがありました。しかしこの制度は「金持ち優遇」として激しい批判を浴び、1883年(明治16年)の法改正で廃止されました。

また「養子縁組」を利用した方法も広く行われていました。当時の制度では「一家の長は徴兵免除」という特例があったため、形式的な養子縁組で戸主となることで兵役を逃れようとする者が後を絶ちませんでした。

さらに学生への猶予制度も存在し、中学校を卒業後、文部省指定の高校や大学、専門学校に進学している場合は26歳まで徴兵が猶予されました。1918年(大正7年)には、この制度を悪用して私立大学への入退学を繰り返していた100人以上の若者が東京憲兵隊に検挙される事件も起きています。

自傷行為という極限の選択

合法的な手段が閉ざされていった太平洋戦争期には、非合法の手段に訴える者も少なくありませんでした。兵役法では、兵役を免れるために逃亡したり身体を毀傷したりする行為には3年以下の懲役という厳しい罰則が科されていたにもかかわらずです。

徴兵検査で不合格となるための自傷行為は多岐にわたりました。人差し指を切り落とす、目を傷つける、足を折るといった不可逆的な方法から、検査の数か月前から食事を極端に減らして体重を落とす、煙草を1日に3〜4箱吸って急激に痩せる、検査直前に醤油を大量に飲んで血圧を異常に上昇させるといった方法まで、さまざまな手段が試みられました。

逃亡と放浪

赤紙が届く前に遠方や山奥へ逃れる「夜逃げ」も、徴兵を免れるための手段でした。日中戦争以降、毎年約2,000人が失踪・逃亡して行方をくらましていたとされています。

逃亡者たちは憲兵の追跡を逃れながら、各地を転々とする過酷な放浪生活を送りました。家族との連絡も断たれ、身分を隠しながらの生活は想像を絶する困難を伴うものでした。発見されれば逮捕・投獄が待っており、周囲の人間も「非国民」の家族として社会的制裁を受ける恐れがありました。

菊池邦作と徴兵忌避の記録

埋もれた歴史を掘り起こした研究者

群馬県伊勢崎市出身の社会運動家・菊池邦作(1899-1986)は、徴兵忌避の実態を体系的に記録した先駆的な研究者です。1977年に立風書房から刊行された『徴兵忌避の研究』は、徴兵制度の成立過程から、明治期の血税一揆、さまざまな忌避の形態、そして日本の軍国主義と絶対天皇制との関係までを包括的に論じた重要な著作です。

菊池の研究は、当時ほとんど学術的に取り上げられることのなかった徴兵忌避という現象に光を当てました。彼が記録した個々の忌避者たちの姿は、戦争と個人の尊厳、国家権力と自由の葛藤という普遍的な問題を私たちに突きつけています。

語られなかった声

徴兵忌避者の多くは、戦後もその経験を公に語ることがありませんでした。「非国民」という烙印は戦後も消えることなく、忌避者たちは沈黙を強いられ続けました。正確な忌避者の数も把握されていません。成功した者は当局に知られることがなく、失敗して処罰された者の記録も体系的には残されていないためです。

現代に問いかける徴兵忌避の意義

良心的兵役拒否という権利

現代の国際社会では、「良心的兵役拒否」は基本的人権の一部として認められつつあります。「人を殺すことはできない」という思想や信条に基づいて兵役を拒む権利を、欧州諸国を中心に法的に保障する国が増えています。旧西ドイツでは「良心の自由」を尊重する立場から、高齢者介護などの福祉業務への従事を条件に兵役拒否を認める制度が設けられていました。

しかし、軍隊を保有する約170か国のうち徴兵制が存在する約67か国において、法的に良心的兵役拒否を認めているのは約30か国に過ぎず、そのうち25か国がヨーロッパ諸国に集中しています。

戦争と個人の自由

戦前の日本では、徴兵忌避は思想的な信条というよりも、死への恐怖や軍隊の過酷な上下関係への忌避感から生じることが多かったとされています。しかしその根底には、国家が個人の生命を一方的に徴用することへの本能的な抵抗がありました。

徴兵忌避の歴史を振り返ることは、国家と個人の関係、戦争と平和、そして「従わないこと」の意味を改めて考える契機となります。

まとめ

太平洋戦争期の徴兵忌避者たちは、「非国民」の烙印を押されながらも、自らの命を守るためにあらゆる手段を講じました。指を切断し、憲兵から逃れて放浪し、社会から孤立する道を選んだ彼らの姿は、長い間歴史の表舞台から消されてきました。

菊池邦作のような研究者の努力によって、その実態が少しずつ明らかになっていますが、いまだ全容は見えていません。戦争の記憶が薄れゆく現代だからこそ、徴兵忌避者たちの存在を知り、国家と個人の関係について考えることの重要性は増しています。彼らの声なき声に耳を傾けることは、平和の意味を問い直す行為にほかなりません。

参考資料:

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