森鷗外の食と医学:軍医として生きた文豪
はじめに
森鷗外といえば『舞姫』『山椒大夫』『高瀬舟』などの名作で知られる明治・大正期の文豪です。しかし、彼にはもう一つの顔がありました。陸軍軍医総監まで上り詰めた医学者としての顔です。
興味深いことに、この医学の権威は食に対して非常に淡泊だったといわれています。美食や珍味に関心を示さず、「あたりまえの物を食べれば好い」という姿勢を貫きました。サツマイモを気に入って毎日食べていた時期もあったとか。
本記事では、森鷗外の食生活にまつわる逸話と、軍医として日本の近代医学に与えた影響を解説します。
森鷗外の生涯と東大医学部
医師の家系に生まれて
森鷗外(本名:森林太郎)は1862年(文久2年)、島根県津和野藩の典医・森静男の長男として生まれました。医師の家系に生まれた彼は、幼少期から英才教育を受け、わずか16歳で東京大学医学部の前身である東京医学校本科に入学しています。
当時の東大医学部は、日本の近代医学教育の中心地でした。幕府の医学所が明治に入って衣替えし、ドイツを中心とした海外からの指導者によって急速な近代化が図られていました。
ドイツ医学との出会い
森鷗外が学んだ東大医学部は、ドイツ医学を基盤としていました。明治政府は当初イギリス医学を採用していましたが、1869年にドイツ医学への転換を決定。相良知安らの尽力により、「学理と研究を重視するドイツ医学こそ世界最高水準」という方針が固まりました。
1871年には、ドイツ人医師レオポルト・ミュルレルとテオドール・ホフマンが来日。さらにエルヴィン・フォン・ベルツが27年にわたり教鞭をとり、明治期の日本医学界に近代西洋医学の基礎を築きました。
森鷗外もこうした環境で学び、1884年(明治17年)、23歳のとき衛生学研究のためドイツ留学を命じられます。ここでの経験が、後の彼の医学観を大きく形作ることになりました。
軍医としての出世
ドイツ留学から帰国後、森林太郎は軍医として順調に出世を重ねました。1907年(明治40年)には46歳で陸軍軍医総監に任命されます。これは軍医として最高の地位でした。
文学者としての森鷗外と、軍医としての森林太郎。この二つの顔を持ちながら、彼は明治から大正にかけての激動の時代を生きました。
食に淡泊だった文豪
「あたりまえの物を食べれば好い」
友人の回想によれば、森鷗外は美食や珍味に関心が薄く、「あたりまえの物を食べれば好いという風」だったといいます。これは岩波文庫『鷗外追想』に記録されています。
特にサツマイモを大層気に入り、毎日食べていた時期もあったとか。当時の知識人や軍の高官としては異例の質素な食生活だったといえるでしょう。
質素さの背景
なぜ森鷗外は食に淡泊だったのでしょうか。明確な理由は残されていませんが、いくつかの推測が可能です。
一つは、津和野藩という地方出身者としての質素な生活習慣です。幼少期に培われた価値観が、東京での生活や海外留学を経ても変わらなかったのかもしれません。
もう一つは、軍医としての合理的な思考です。栄養が摂れればそれでよい、という実用主義的な考え方が食事にも反映されていた可能性があります。
脚気論争と白米問題
明治日本を襲った国民病
森鷗外の軍医としての経歴を語る上で避けて通れないのが、脚気論争です。
脚気とは、ビタミンB1欠乏によって起こる病気です。江戸時代、玄米に代わって白米が普及するにつれ、脚気患者が急増しました。米の胚芽に多く含まれるビタミンB1は、精米によって取り除かれてしまうからです。
白米がいち早く普及した江戸では特に患者が多く、「江戸わずらい」とも呼ばれました。明治時代以降は流行がさらに拡大し、年間1万〜3万人が脚気で亡くなるという深刻な事態となりました。
海軍の成功と陸軍の失敗
特に問題となったのが軍隊内での脚気の蔓延でした。同じ兵食を食べる軍では、脚気によって兵士が次々と倒れ、国家安全保障上の大問題となりました。
海軍軍医の高木兼寛は、脚気の原因が食べ物にあることをいち早く見抜きました。イギリス留学経験のあった高木は、イギリス海軍に脚気がないことに着目。兵食に麦飯を取り入れることで、海軍の脚気を激減させることに成功しました。
一方、陸軍は異なるアプローチをとりました。ドイツ医学を学んだ陸軍軍医たちは、脚気は「脚気菌」による細菌感染症だと主張。白米食を維持し続けました。
森林太郎の立場
森林太郎は、この論争において陸軍の「脚気菌説」を支持しました。高木の栄養欠陥説は「理論的に解明されていない非科学的なもの」として退けたのです。
留学先のドイツからわざわざ高木を非難する論文を送るほど、森は自説を固持しました。上官の石黒忠悳に同調し、白米支給の方針変更を認めませんでした。
その結果は悲惨でした。日清戦争では戦死者1,417人に対し、病死者は11,894人。うち脚気による死者は3,944人で最多でした。日露戦争ではさらに深刻化し、戦死者47,000人に対して脚気による死者は27,800人に達しました。
ビタミンの発見と論争の決着
1911年、化学者・鈴木梅太郎が米ぬかからオリザニン(ビタミンB1)を抽出することに成功。これが脚気の原因物質の欠乏によるものだと証明しました。
しかし森鷗外は、東大農学部出身の鈴木を見下し、最後まで自説を曲げませんでした。「脚気ビタミン欠乏説」が公式に確定したのは1924年(大正13年)、森鷗外の死後2年のことでした。
注意点と歴史的評価
医学者としての評価
森林太郎の脚気論争での判断は、医学史においては批判的に評価されています。科学的証拠よりも権威や学閥を重視した態度は、多くの兵士の命を奪う結果となりました。
ただし、当時の医学水準や組織の硬直性を考慮すべきという見方もあります。ビタミンの概念自体がまだ存在しなかった時代、細菌説が主流だったのは事実です。
文学者としての偉大さ
一方で、文学者としての森鷗外の評価は揺るぎません。『舞姫』『雁』『阿部一族』など、日本近代文学を代表する作品を数多く残しました。
1922年(大正11年)、森鷗外は60歳で死去。遺言には「余は石見人森林太郎として死せんと欲す」とあり、生まれ故郷・津和野への思いを最後まで持ち続けていたことがうかがえます。
まとめ
森鷗外は、文豪としての顔と軍医としての顔、二つの異なる側面を持つ人物でした。食に淡泊で、サツマイモを毎日食べるほど質素だったという逸話は、権威ある軍医総監のイメージとは異なる人間味を感じさせます。
脚気論争での判断は医学史上の汚点とされますが、それも含めて一人の人間の全体像です。明治から大正という激動の時代を、文学と医学の両面で駆け抜けた森鷗外の生涯は、現代の私たちに多くの示唆を与えてくれます。
参考資料:
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