王子HDの退職一時金廃止が映す人的投資再設計と賃金制度転換の本質
はじめに
王子ホールディングスの退職一時金廃止方針が注目を集めたのは、単に福利厚生が一つ減るからではありません。日本企業の賃金制度が、長期勤続を前提にした「後払い」から、月例給や持ち運び可能な年金制度を重視する方向へ動いていることを象徴するからです。人手不足が深まる中で、企業は採用競争力を高めたい。一方で社員側は、何十年後の退職金より、今の給与や転職時に失われにくい資産形成を重視しやすくなっています。
ただし、この見直しは単純に「現役世代に得」とも言い切れません。退職一時金には税制上の優遇があり、長期勤続者ほど有利になりやすい仕組みだからです。そこで重要になるのは、退職金をなくすか残すかではなく、企業がどの報酬をどの時点で支払い、社員がそれをどれだけ理解して選べるようにするかです。王子HDの事例は、その再設計の難しさをよく示しています。
退職一時金が揺らぐ構造変化
後払い賃金モデルの限界
退職一時金は、日本型雇用の中で長く機能してきました。厚生労働省の令和5年就労条件総合調査では、退職給付制度がある企業は74.9%です。制度形態をみると、退職給付制度がある企業のうち「退職一時金制度のみ」が69.0%、「退職年金制度のみ」が9.6%、「両制度併用」が21.4%でした。なお大企業では同じ調査で制度保有率がより高く、退職金はなお主流の人事制度です。
それでも見直し圧力が強まるのは、退職一時金が長期勤続と引き換えに成立する制度だからです。王子グループの既存の企業年金サイトでは、退職金の支給原資は勤続ポイントと役割等級ポイントの積み上げで決まり、その50%が企業年金の支給原資になると説明しています。自己都合退職では制限率がかかる仕組みも明示されています。これは典型的な「長く勤めるほど有利」という設計であり、転職が前提化する労働市場とは相性が良くありません。
中途採用が広がるほど、このねじれは大きくなります。厚生労働省は正規雇用労働者の中途採用比率の公表を企業に求めており、中途採用・経験者採用のニーズが労使双方で高まっていると説明しています。総務省の労働力調査でも、2025年の転職等希望者は1023万人と前年より23万人増えました。人材の流動化が進む局面で、同じ会社に長く残るほど報われる制度だけでは、採用にも定着にも説明力が弱くなります。
役割主義と人的投資への接続
王子HDはサステナビリティサイトで、実質的年次ではなく「役割期待」と「成果」を基準とする役割等級制度を掲げています。2023年度からは一定条件の従業員を対象に最長67歳までの再雇用制度も導入し、長く働ける環境整備も進めています。つまり同社は、年功より役割と能力に応じた処遇へ軸足を移しつつある企業です。
この文脈では、退職時にまとめて支払う一時金を厚く持つより、月例給や教育投資、あるいは転職しても持ち運びやすい制度に回した方が、戦略との整合性は高まります。経済産業省が2026年3月に公表した「人的資本可視化指針」改訂版でも、企業価値向上につながる質の高い人的資本投資を実践・開示するため、経営戦略と連動した人材戦略の整理が求められています。報酬制度もその一部として説明可能であることが重要になっています。
王子HDの見直しが示す新しい報酬設計
月例給と企業年金への再配分
王子グループの採用サイトを見ると、2026年4月入社ベースの初任給は職種別に学部卒で27万2000円から28万円台、修士了で28万8900円から29万6900円です。福利厚生には社宅や住宅融資、財形貯蓄などが並び、配属会社が変わっても65歳定年までの総合的労働条件は同等としています。グループ横断で人材を動かす企業では、退職一時金だけを厚くするより、見えやすい月例給を高めた方が採用時の訴求力を持ちやすい面があります。
その受け皿になるのが企業年金の再設計です。2025年3月末時点で、確定給付企業年金の加入者は887万人、企業型確定拠出年金の加入者は862万人と拮抗しています。特に企業型DCは拡大が続いており、厚生労働省も離転職時に積み立て資産を他制度へ持ち運べるポータビリティーを制度の特徴として示しています。企業からみれば、将来の支払約束をそのまま抱え込むより、毎月の報酬やDC拠出へ配分した方が、採用・定着・財務管理を一体で設計しやすくなります。
ここで重要なのは、退職金をゼロにすることではなく、総報酬をどう組み替えるかです。退職一時金を廃止しても、基本給、賞与、企業年金、福利厚生、教育機会の合計価値が上がるなら、制度変更は必ずしも改悪ではありません。逆に総額が変わらず、税制面だけ不利になるなら、社員の納得は得にくいでしょう。
税制優遇を失う可能性という落とし穴
社員側にとって最大の論点は税制です。国税庁によれば、退職所得は原則として「収入金額から退職所得控除額を差し引いた額の2分の1」で計算され、勤続20年以下なら40万円×勤続年数、20年超なら800万円に超過年数×70万円を加えた控除が使えます。長く勤める人ほど退職時に有利になりやすい設計です。
このため、退職一時金の原資をそのまま月給へ回すだけだと、一般論としては給与所得課税と社会保険料負担が先に立ち、将来の退職所得控除を使えなくなる分だけ不利になる可能性があります。これは制度変更の具体設計次第ですが、少なくとも「月給が上がるから得」とは単純に言えません。企業が社員に示すべきなのは、名目賃上げではなく、税引き後や老後資産形成まで含めた総報酬の見取り図です。
注意点・展望
退職一時金の見直しで誤りやすいのは、古い制度をなくせば自動的に人的投資になる、という発想です。実際には、見直し後の原資が基本給に回るのか、企業型DCに積み増されるのか、教育訓練や異動支援に使われるのかで意味は大きく変わります。社員が制度を理解できなければ、企業にとっては採用広報の改善にしかならず、定着率やエンゲージメントには結びつきません。
今後は、退職金の有無よりも、報酬制度の説明責任が厳しく問われます。人的資本開示の改訂も進み、企業は経営戦略と人材戦略の連動をより具体的に示す必要があります。王子HDのような大企業が退職一時金を見直す流れが広がれば、他社でも「前払い型賃金」と「持ち運べる年金」をどう組み合わせるかが競争軸になります。
まとめ
王子HDの退職一時金廃止は、退職金制度の終わりというより、報酬の配分先を変える動きとして捉えるべきです。中途採用の拡大、転職希望者の増加、役割主義の浸透、人的資本開示の強化という四つの流れが重なり、後払い賃金だけでは企業も社員も満足しにくくなっています。
ただし、制度変更は設計を誤ると新たな不満を生みます。退職所得控除のような既存の優遇を失うなら、その代わりに何をどう積み増すのかを数字で示す必要があります。企業に求められるのは「退職金をなくす勇気」ではなく、社員のキャリアの長期化と流動化の両方に耐える総報酬設計です。王子HDの一手は、その難題を正面から突きつけています。
参考資料:
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