退職金課税の見直しで何が変わる 知っておくべき税制改正の全容
はじめに
小津安二郎監督の映画『早春』(1956年)には、定年を控えた男性が「われわれサラリーマンの行く末は退職金を前にして寂しがるのが関の山でさあ」と語る場面があります。70年近く前のセリフですが、退職金への不安は現代にも通じるものがあります。
退職金をめぐる環境は、近年大きく変化しています。2026年1月からは退職所得控除の「5年ルール」が「10年ルール」に改正され、iDeCo(個人型確定拠出年金)と退職金の受け取り戦略に見直しが必要になりました。さらに退職金の平均支給額は減少傾向にあり、退職金制度そのものを持たない企業も一定数存在します。
この記事では、退職金に関する最新の税制改正の内容と、変わりゆく退職金事情について詳しく解説します。
退職所得控除の仕組みと改正内容
退職所得控除の基本
退職金には「退職所得控除」という税制上の優遇措置があります。長期間の勤務に対する対価としての退職金に、税負担を軽減する仕組みです。
控除額の計算方法は以下のとおりです。
- 勤続20年以下: 40万円 × 勤続年数(最低80万円)
- 勤続20年超: 800万円 + 70万円 ×(勤続年数 − 20年)
たとえば勤続35年の場合、800万円 + 70万円 × 15年 = 1,850万円が控除されます。退職金が1,850万円以下であれば、実質的に非課税です。さらに控除後の金額も2分の1課税となるため、退職金は他の所得と比べて大幅に優遇されています。
「5年ルール」から「10年ルール」への変更
2026年1月から施行された改正の核心は、退職所得控除の「調整規定」の対象期間拡大です。
従来の「5年ルール」では、iDeCoなどのDC(確定拠出年金)一時金を受け取った後、5年を超えて退職金を受け取れば、双方で退職所得控除を満額適用できました。
改正後の「10年ルール」では、この調整期間が10年に延長されています。DC一時金を受け取った年の前年以前9年以内に退職金を受け取る場合、勤続期間の重複部分について控除が調整(減額)される仕組みです。
この改正は「課税の公平性」を目的としています。以前は同じ勤務期間に対して二重に控除を受けられるケースがあり、制度の趣旨に反するとの指摘がありました。
受け取り順序で異なるルール
注意すべきは、受け取り順序によって適用されるルールが異なる点です。
iDeCoを先に受け取り、退職金を後に受け取る場合: 前年以前9年以内(10年ルール)が適用されます。控除を満額活用するには、iDeCo受給後10年以上空けて退職金を受け取る必要があります。
退職金を先に受け取り、iDeCoを後に受け取る場合: こちらには従来どおり「19年ルール」が適用されます。退職金受給後、前年以前19年以内にiDeCoを受け取ると控除が調整されます。
この非対称な扱いが制度を複雑にしており、個人の状況に応じた受給タイミングの設計が極めて重要になっています。
変わりゆく退職金の実態
退職金の平均額と減少傾向
厚生労働省の調査によると、退職金の平均支給額は以下のとおりです。
| 区分 | 大卒・定年退職 |
|---|---|
| 大企業 | 約2,140万円 |
| 中小企業 | 約1,092万円 |
注目すべきは、これらの金額が年々減少傾向にあることです。ピーク時と比較すると、大企業でも数百万円単位の減少が見られます。退職金だけで老後の生活を賄うことが難しい時代になりつつあります。
また、退職金の支給形態も変化しています。かつての「一括一時金」中心から、確定拠出年金(DC)や確定給付企業年金(DB)を併用する企業が増えており、従来型の退職一時金制度は確実に姿を変えています。
退職金制度の現状
2023年の厚生労働省「就労条件総合調査」によると、退職金制度がある企業の割合は74.9%で、約25%の企業には退職金制度がありません。
ただし、この数字は慎重に読む必要があります。制度なしの企業が増えているように見える背景には、もともと制度のなかった小規模企業が調査対象に加わったという統計上の要因があります。実際には小規模企業での新規導入が廃止を上回っているとのデータもあり、「退職金制度が消えていく」という単純な見方は正確ではありません。
労働市場の流動化と退職金税制の矛盾
政府が進める労働市場の流動化政策は、退職金のあり方にも影響を与えています。現行の退職所得控除は勤続20年超で1年あたりの控除額が40万円から70万円に跳ね上がる仕組みで、長期勤続を優遇する設計です。
転職が当たり前の時代に、この「長期勤続ほど有利」な仕組みは労働移動の障壁になりうるとの議論が続いています。骨太の方針でも退職金課税制度の見直しが言及されており、今後さらなる改正が行われる可能性があります。
注意点・展望
受給タイミング設計のポイント
10年ルールの施行により、最も影響を受けるのはiDeCoに加入している会社員です。以下のポイントを押さえておきましょう。
- 基本戦略: 60歳でiDeCoを一時金で受け取り、70歳以降に退職金を受け取ることで控除を最大化できます
- 企業制度の確認: 70歳まで退職金受給を遅らせられるかは企業ごとの制度設計によります
- 精緻な計算が必要: 1年の違いが数十万円の税負担の差を生むケースもあるため、シミュレーションが重要です
- 専門家への相談: 税理士やファイナンシャルプランナーへの相談も有効な選択肢です
今後の制度改正の方向性
現行の長期勤続優遇の見直しについては、政府の税制調査会で継続的に議論されています。将来的には勤続年数に関係なく一律の控除額とする案や、控除額に上限を設ける案なども検討されており、退職金税制の抜本的な改革が行われる可能性は否定できません。
「人生100年時代」においては、退職金だけに頼るのではなく、iDeCo・NISA・企業年金などを組み合わせた総合的な資産形成を進めることがますます重要になっています。
まとめ
退職金をめぐる環境は、税制改正と社会構造の変化により大きな転換期を迎えています。2026年1月施行の「10年ルール」は、iDeCoと退職金の受給戦略に直接影響する重要な改正です。
まずは自身の退職金制度やiDeCoの加入状況、想定される受給時期を整理することが第一歩です。そのうえで税制改正の影響をシミュレーションし、必要に応じて専門家に相談しましょう。小津映画の時代とは異なり、現代では退職後の人生を「儚い」もので終わらせないための選択肢が豊富にあります。早めの準備が、安心のセカンドライフにつながります。
参考資料:
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