大佛次郎と猫―500匹と暮らした文豪の愛猫人生
はじめに
「女房の話だと、私の家に住んだ猫の数は五百匹に余る」。これは作家・大佛次郎が1962年の随筆に記した一節です。『鞍馬天狗』や『パリ燃ゆ』など、時代小説からノンフィクションまで幅広いジャンルで名作を残した文豪は、同時に日本文学史上最大級の愛猫家でもありました。
常に家には10匹以上の猫がおり、最大で15匹を超えることもあったといいます。大佛次郎にとって猫は「生涯の伴侶」であり、「来世は猫に生まれたい」とまで語ったほどです。本記事では、文豪・大佛次郎の猫愛に満ちた人生と、その作品世界、そして現在も横浜で受け継がれる猫文化について解説します。
大佛次郎とは何者か―横浜が生んだ国民的作家
鎌倉の大仏から生まれたペンネーム
大佛次郎(おさらぎ・じろう)は1897年(明治30年)、横浜市英町(現在の中区)に生まれました。本名は野尻清彦です。東京帝国大学を卒業後、外務省条約局に勤務するエリート官僚の道を歩みましたが、やがて文筆の世界へ転身します。
ペンネームの由来はユニークです。鎌倉高等女学校を退職後、鎌倉市長谷にある大仏の裏手に居を構えたことから、「大仏は長男で一郎だから、自分は次郎」と名乗るようになりました。この洒脱なネーミングセンスからも、大佛次郎という人物の茶目っ気がうかがえます。
多彩な作品群と文化勲章
1924年に発表した時代小説『鞍馬天狗』シリーズで一躍人気作家となりました。幕末を舞台にした痛快な活劇は、その後47篇にわたって書き継がれ、映画やテレビドラマにもなった国民的作品です。
さらに、パリ・コミューンを題材にした大河ノンフィクション『パリ燃ゆ』、忠臣蔵を描いた『赤穂浪士』、明治維新を多角的に描いた絶筆『天皇の世紀』など、歴史を題材にした重厚な作品も数多く残しています。1964年には文化勲章を受章し、1965年には朝日文化賞を受賞。名実ともに日本を代表する文豪としての地位を確立しました。
1973年に75歳で亡くなった後、その業績を記念して朝日新聞社が「大佛次郎賞」を創設しています。現在も毎年、優れたノンフィクションや評論に贈られる権威ある文学賞として続いています。
500匹の猫と暮らした日々―驚きの愛猫エピソード
「住み込み猫」と「通い猫」の世界
大佛次郎の猫好きは単なる趣味の域を超えていました。常に家には10匹以上の猫がいましたが、その内訳は「住み込み猫」と「通い猫」に分かれていたといいます。住み込み猫は家に定住する猫たちで、通い猫は食事の時間になるとやってくる近所の猫たちです。
ある日、大佛次郎が食事時に猫を数えると16匹もいました。驚いて夫人に伝えたところ、「お客様猫ですから、ご飯を食べたら帰ります」という名回答が返ってきたそうです。通い猫たちは食事の時間をきちんと守り、なかには「子猫まで連れて引っ越してきた」者もいたと随筆に記されています。
猫が集まる家
鎌倉に住んでいた大佛次郎の猫好きは近所でも有名でした。そのため、捨て猫が玄関先に置かれることが後を絶たなかったといいます。散歩中に野良猫を見かけると連れて帰ってしまうこともあり、夫人が拾ってくることも多かったようです。
こうして猫の数は増える一方で、さすがに上限を15匹と決めたこともあったそうです。しかし、その制限がどこまで守られたかは定かではありません。生涯で500匹以上の猫と暮らしたという数字は、こうした「住み込み」と「通い」の猫たちを合わせた累計です。
脱走猫「小僧」のエピソード
大佛次郎の猫エピソードの中でも印象的なのが、白猫「小僧」の話です。小僧はある日脱走し、鎌倉から横浜まで逃げてしまいました。一週間後に麻袋に入れられて戻されたものの、その後は性格が一変。住み込み猫だったはずが、家出を繰り返しては腹が減ると戻ってくるという自由奔放な暮らしぶりに変わり、性格も怒りっぽくなったそうです。こうした猫たちの個性を、大佛次郎は愛情深い目で観察し、随筆に書き留めていました。
猫文学の最高峰―作品に息づく猫への愛
『猫のいる日々』―60篇の猫エッセイ集
大佛次郎が残した猫に関する文学作品の中で、もっとも知られているのがエッセイ集『猫のいる日々』です。60篇近くの随筆に加え、小説1篇、童話4篇を収録したこの作品集は、昭和初期から晩年までの猫との暮らしを時系列で追うことができます。
猫の仕草や性格を細やかに描写しながらも、そこに人間社会への鋭い観察眼が重なる独特の文体が特徴です。猫好きはもちろん、文学ファンにも長く愛されるロングセラーとなっています。
童話『スイッチョねこ』
大佛次郎の猫文学のもうひとつの代表作が、童話『スイッチョねこ』です。この作品は子ども向けに書かれたものですが、大人が読んでも味わい深い物語として評価されています。猫の生態を熟知した作家ならではの描写が随所に光り、現在も読み継がれているロングセラーです。
日本の猫文学における位置づけ
日本文学と猫の関係は深く、夏目漱石の『吾輩は猫である』、谷崎潤一郎のペルシャ猫「ペル」への溺愛、内田百閒の野良猫「ノラ」への愛情など、多くの文豪が猫にまつわるエピソードを持っています。
しかし、500匹以上の猫と暮らし、60篇を超える猫に関する随筆を残した大佛次郎は、その規模においてまさに「猫文学の最高峰」です。猫を飼っていただけでなく、猫の絵や置物などのコレクションも300点以上にのぼり、猫に対する情熱は文字通り生涯を貫くものでした。
横浜・大佛次郎記念館―猫文化を今に伝える場
港の見える丘公園のレンガ館
横浜市中区の「港の見える丘公園」の中に、大佛次郎記念館があります。レンガ造りのレトロな洋館で、大佛次郎の原稿や書簡、愛用品に加え、300点以上の猫コレクションが展示されています。猫の絵や置物、猫にまつわる浮世絵やおもちゃ絵など、猫好きにはたまらない空間です。
毎年恒例「大佛次郎×ねこ写真展」
記念館では毎年冬から春にかけて「大佛次郎×ねこ写真展」が開催されています。一般から猫の写真を公募し、18文字以内のコメントとともに展示するこの企画は、猫好きの間で定着したイベントです。2025年には482点もの応募が寄せられ、2026年も1月4日から4月19日まで開催されています。
2月22日の「猫の日」には来場者先着100名にポストカードがプレゼントされるなど、猫の日にちなんだ特別企画も行われています。大佛次郎の猫愛は、没後50年以上を経た今も、こうしたイベントを通じて受け継がれています。
注意点・展望
「猫好き作家」の枠に収まらない業績
大佛次郎を語る際、猫好きのエピソードばかりが注目されがちですが、その文学的業績を見落としてはなりません。『鞍馬天狗』は大衆文学の金字塔であり、『パリ燃ゆ』は日本人によるフランス近代史研究の先駆的作品です。『天皇の世紀』は明治維新を多角的に描いた未完の大作として、歴史研究にも影響を与えています。
猫愛と文学的達成の両方を持ち合わせていたからこそ、大佛次郎の猫エッセイには単なる愛猫家の日記を超えた文学的価値があります。猫を通して人間社会を見つめる眼差しは、現代の読者にとっても新鮮です。
猫と文学の未来
近年、猫カフェや保護猫活動の広がりとともに、猫に関する書籍や展覧会への関心も高まっています。大佛次郎記念館の「ねこ写真展」が毎年盛況であることは、猫と文化の結びつきが今なお強いことを示しています。大佛次郎が残した猫文学は、時代を超えて猫好きの心に響き続けるでしょう。
まとめ
大佛次郎は『鞍馬天狗』『パリ燃ゆ』『天皇の世紀』など多彩な作品を残した国民的作家であり、同時に生涯で500匹以上の猫と暮らした日本文学史上最大級の愛猫家でした。「住み込み猫」と「通い猫」が行き交う日常を、温かくもユーモラスな筆致で描いた随筆集『猫のいる日々』は、今も読み継がれるロングセラーです。
横浜の大佛次郎記念館では、300点以上の猫コレクションの展示や毎年恒例の「ねこ写真展」を通じて、文豪の猫愛が受け継がれています。猫好きの方はもちろん、日本の近現代文学に興味がある方にとっても、大佛次郎の作品世界は多くの発見に満ちています。まずは『猫のいる日々』を手に取ってみてはいかがでしょうか。
参考資料:
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