東横イン、業界2倍の値上げに逆行する戦略
はじめに
日本のビジネスホテル業界が、かつてない価格高騰の波に直面しています。東京商工リサーチによると、ビジネスホテル8ブランド平均の客室単価は2025年3月期に1万3,930円となり、2023年同期と比べて4割高い水準です。都内では平均2万円を超える状況も珍しくなく、「1泊1万円」という従来の出張費の常識が通用しなくなっています。
こうした中、国内最大級のビジネスホテルチェーン「東横イン」を率いる黒田麻衣子社長(49歳)は、「物価高でもホテル価格は出張経費内に収める」という方針を明言しました。インバウンド需要の恩恵を受けながらも、過度な値上げを避ける東横インの戦略は、業界の中で異彩を放っています。本記事では、ビジネスホテル業界の価格動向と、東横インの独自戦略を詳しく解説します。
ビジネスホテル価格高騰の実態
客室単価が2年で2倍に急騰
2025年3月期のビジネスホテル8ブランド平均の客室単価は1万3,930円で、新型コロナウイルス感染症流行期の2021年同期の6,180円から7,750円上回り、約2倍以上に上昇しました。都内のビジネスホテルの平均客室単価は、2024年11月に1泊2万48円となり、前年同月比で26%上昇し、1泊1万円強だった2022年11月の2倍近い水準となっています。
東京ホテル会のデータでは、東京のビジネスホテル平均料金は2024年に1万5,000円を超え、2025年も高水準で推移しています。一部の大手チェーンでは、繁忙期には2万円を超えるケースも珍しくありません。
さらに極端な事例として、ゴールデンウィーク(4〜5月)期間中には平均客室料金が1万7,000円を超え、都心部のカプセルホテルでさえ1泊2万円を超える価格設定も見られました。
インバウンド需要の爆発的回復
価格高騰の最大の要因は、インバウンド観光の急速な回復です。日本政府観光局(JNTO)によると、2025年前半の訪日外国人客数は2,151万8,100人(前年同期比21.0%増)に達し、半年間で2,000万人を突破する過去最速のペースとなりました。
円安の影響もあり、日本は海外からの観光客にとって魅力的な渡航先となっています。ホテル業界はこの需要増に対応するため、客室単価を引き上げ、収益最大化を図っています。上場ホテル会社15ブランドの2025年3月期平均客室単価は1万6,679円(前年同期比12.6%増)となり、すべてのブランドで前年同期を上回りました。
インフレ圧力:人件費と運営コストの上昇
インバウンド需要だけでなく、インフレも価格上昇を後押ししています。日本の総務省が発表したコア消費者物価指数(CPI)は、2025年4月に前年同月比3.8%上昇し、日本銀行の2%目標を大きく上回りました。特に食料品価格は7.2%上昇し、40年ぶりの高水準を記録しました。
ホテル業界は、食材費、光熱費、人件費など、あらゆる運営コストの上昇に直面しています。特に人手不足が深刻で、客室清掃や接客スタッフの時給引き上げが避けられない状況です。こうしたコスト増を吸収するため、多くのホテルが客室料金の値上げに踏み切っています。
出張族の悲鳴:規定の見直しを迫られる企業
この急激な価格上昇により、従来の「1泊1万円」という出張費の基準では対応できなくなっており、多くの企業が出張規定の見直しを迫られています。東京ホテル会の代表は「東京の宿泊代金が上がりすぎて、企業の出張時の宿泊経費では間に合わなくなってしまっている」と述べています。
2025年の調査では、約3割が「出張規定の宿泊費の上限額が上がった」と回答しており、今後はますます企業側にも予算を含む出張規定の見直しが求められています。従来の水準から1.5〜2倍程度の見直しが必要とされており、企業の経費負担は大幅に増加しています。
一方で、規定の見直しが間に合わない企業では、出張者が自己負担を強いられるケースや、出張自体を控える動きも出ています。国内旅行者数が伸び悩んでいる背景には、こうした宿泊費高騰の影響があると指摘されています。
東横インの「逆行戦略」:稼働率重視の経営哲学
黒田麻衣子社長の価格方針
東横イン社長の黒田麻衣子氏は、業界全体が値上げに走る中、「物価高でもホテル価格は出張経費内に収める」という方針を明言しています。具体的には、ゴールデンウィークやお盆などの繁忙期でも、7,800円(税別)以上の価格をつけない方針を維持しています。新宿歌舞伎町の東横インでは、最繁忙期でもシングル客室が1万円を超えることはないとされています。
2025年1月時点での東京大手町の東横インでは、エコノミーシングルが1泊8,700円程度で提供されており、会員割引を利用すればさらに安く宿泊できます。業界平均が1万3,930円であることを考えると、明らかに低価格戦略を堅持していることがわかります。
「客単価ではなく稼働率を上げる」という創業の理念
東横インの価格戦略の根底にあるのは、創業者である西田憲正氏(黒田社長の父)から受け継いだ「客単価ではなく稼働率を上げる」という経営哲学です。この考え方は、高価格で一部の顧客から大きな収益を得るのではなく、適正価格で多くの顧客に利用してもらい、稼働率を高めることで安定的な収益を確保するというものです。
この戦略には、いくつかの重要な意味があります。第一に、リピーター育成に有利です。出張者の多くは、会社の出張規定内で宿泊先を選びます。東横インのように「いつでも予算内で泊まれる」という安心感は、強力なリピート要因となります。
第二に、価格変動を最小限に抑えることで、顧客の信頼を得られます。他のホテルが需給に応じて大きく価格を変動させる中、東横インは「日によって極端な料金差がない」ことを重視しています。これは、ビジネスホテル特有の戦略として合理的です。
第三に、原価に一定の利益を乗せた金額で提供することで、社会に必要とされるホテルを目指すという理念があります。過度な利益追求ではなく、持続可能な事業運営を優先する姿勢が表れています。
稼働率重視のメリットとリスク
稼働率重視の戦略には、明確なメリットがあります。客室稼働率が高ければ、固定費(賃料、設備投資、基本人件費など)を効率的に回収できます。ビジネスホテルは、空室が多いと利益率が大きく低下するビジネスモデルです。
また、安定した稼働率を維持することで、スタッフのシフト管理や食材の仕入れなど、運営面での効率化も図れます。東横インは従来、利益率22%という高い水準を実現してきましたが、これは稼働率の高さに支えられています。
一方で、リスクも存在します。競合が高単価戦略で大きな収益を上げている中、東横インが価格を抑制すれば、短期的な収益機会を逃すことになります。特にインバウンド需要が旺盛な現在、外国人観光客向けに高価格設定をするホテルと比べると、客室あたりの売上は低くなります。
また、インフレ圧力が続く中で価格を抑制すれば、利益率が圧迫されるリスクがあります。食材費、光熱費、人件費の上昇を価格転嫁できなければ、利益が減少します。
コロナ禍からの回復と中期経営計画
東横インは、新型コロナウイルス感染症の影響で創業以来初の赤字に転落しました。2022年3月期の売上高は486.7億円(前年比42.84%減)、純利益は30.3億円(同70.45%減)と大幅に落ち込みました。競合のアパホテルがコスト削減で黒字を維持した一方、東横インは赤字となり、明暗が分かれました。
しかし、その後の回復は目覚ましく、2024年3月期には売上高1,439億円、宿泊客数2,532万人を達成しました。クラブカード会員数は770万人を超え、国内342店舗を構える日本最大級のビジネスホテルチェーンに成長しています。
2025年7月には、中期経営計画「TARGET 2027」を発表し、2033年までにグローバル売上3,000億円、客室数10万室、稼働率80%を目指す長期ビジョンを掲げました。この計画では、「プリンシパル・ワン・プライス(原則一価格)」戦略を維持しながら、リピーター顧客との関係強化を重視しています。
現場重視の経営とリブランディング戦略
支配人との1on1で組織を活性化
黒田社長の経営スタイルの特徴は、現場重視の姿勢です。彼女は定期的に支配人との個人面談(1on1)を実施し、現場の声を直接聞くことを重視しています。「成長の原動力は現場にある」という確信のもと、支配人には「挑戦を続けてください」と伝え続けています。
この現場重視の経営は、組織の活性化につながっています。トップダウンで一方的に方針を押し付けるのではなく、現場の実情を踏まえた柔軟な対応が可能になります。各ホテルの立地や顧客層に応じたきめ細かなサービス改善が、顧客満足度の向上につながっています。
インバウンド戦略:「日本旅の基地になる」
東横インは、インバウンド需要を単なる値上げの機会としてではなく、長期的な成長戦略の一環と位置づけています。黒田社長は「日本旅の基地になる」というビジョンを掲げ、インバウンド受け入れ強化店舗を整備し、地元の魅力的な情報を発信することに注力しています。
具体的には、多言語対応の強化、キャッシュレス決済の充実、地域観光情報の提供などを進めています。外国人観光客にとって、安価で信頼できる宿泊先として認知されることで、リピーターを増やす戦略です。
女性の活躍推進と働きがいのある職場づくり
黒田社長は、社長ビジョンとして「日本一女性が働きがいのある職場を目指して」を掲げています。特に、妻であり母である30代後半〜40代後半の女性を積極的に採用し、柔軟な働き方を支援しています。
ホテル業界は人手不足が深刻な業界ですが、働きやすい環境を整備することで、優秀な人材を確保・定着させることができます。これは、長期的な競争力の源泉となります。
業界全体の課題と今後の見通し
価格高騰の持続可能性
現在のビジネスホテル価格の高騰は、インバウンド需要という外的要因に大きく依存しています。しかし、この需要が永続的に続く保証はありません。為替レートの変動、国際情勢の変化、景気後退などにより、インバウンド需要が減少すれば、高単価戦略を取っているホテルは稼働率の低下に直面します。
東横インのような稼働率重視の戦略は、需要変動に対して相対的に強いと考えられます。景気が悪化しても、出張需要は完全にはなくならず、低価格で信頼できるホテルへの需要は底堅いためです。
国内旅行市場の縮小リスク
宿泊費高騰により、日本人の国内旅行が抑制される傾向が出ています。日本総研の分析によれば、宿泊費の高騰が国内旅行者数の伸び悩みの背景にあり、観光収益の地域差を助長しているとされています。
インバウンド観光に偏重した戦略は、国内旅行市場を犠牲にするリスクがあります。東横インのように、国内出張者やレジャー客を重視する戦略は、日本人顧客を失わないという点で重要です。
ダイナミックプライシングとの両立
多くのホテルが導入しているダイナミックプライシング(需給に応じた価格変動)は、収益最大化の有効な手法です。しかし、ビジネスホテルの主要顧客である出張者にとっては、予算管理が難しくなるというデメリットがあります。
東横インのような「極端な料金差を作らない」戦略は、ビジネス客の信頼を維持する上で合理的ですが、繁忙期の収益機会を逃すリスクもあります。今後、どこまで価格安定性を維持できるかが課題となります。
レベニューマネジメントの高度化
ホテル業界全体で、レベニューマネジメント(「いつ、誰に対して、いくらで売れば、自社の収益と顧客の購買機会が最大化するか」という分析に基づき価格の最適解を追求する手法)の導入が進んでいます。
東横インも、稼働率を最大化しつつ、適正な価格設定を実現するために、データ分析の高度化が求められます。顧客セグメント(出張、レジャー、インバウンドなど)ごとに最適な価格とサービスを提供することで、収益性と顧客満足度を両立させることが可能になります。
注意点と今後の展望
コスト削減の限界
価格を抑制しながら利益を確保するには、徹底したコスト管理が不可欠です。東横インはこれまで、宿泊に特化することでサービスを厳選し、設備や労務コストを抑える「バジェットホテル」モデルで高い生産性を実現してきました。一部のバジェットホテルでは、GOP(営業総利益)が50%近くに達するケースもあります。
しかし、インフレが続く中で、コスト削減には限界があります。食材費、光熱費、人件費の上昇を完全に吸収することは困難であり、どこかで価格転嫁が必要になる可能性があります。
ブランド価値の維持
低価格を維持することは、顧客にとってはメリットですが、「安かろう悪かろう」というイメージを持たれるリスクもあります。東横インは、クラブカード会員770万人という強固な顧客基盤を持っていますが、サービス品質を維持・向上させ続けることが、ブランド価値を守る鍵となります。
競合との差別化
バーガーキングが2019年の77店舗から2025年に337店舗に拡大し、2028年末までに600店舗を目指しているように、ビジネスホテル業界も競争が激化しています。ファットバーガーのような海外チェーンも日本市場に再参入しており、競争環境は厳しさを増しています。
東横インが差別化を図るには、価格だけでなく、立地、利便性、会員特典、地域との連携など、多面的な価値提供が必要です。
グローバル展開の挑戦
中期経営計画「TARGET 2027」では、グローバル売上3,000億円、客室数10万室という野心的な目標を掲げています。国内市場が成熟する中、海外展開は成長戦略の重要な柱となります。
しかし、海外市場では、現地の競合、規制、文化の違いなど、新たな課題に直面します。日本で成功した低価格・高稼働率モデルが、海外でも通用するかは未知数です。
まとめ
ビジネスホテル業界が2年で客室単価を2倍に引き上げる中、東横インは「出張経費内に収まる価格」を堅持する逆行戦略を取っています。黒田麻衣子社長が掲げる「客単価ではなく稼働率を上げる」という創業の理念は、短期的な収益最大化よりも、長期的な顧客との信頼関係を重視する姿勢を示しています。
この戦略には、リピーター育成、価格安定性、社会的必要性といったメリットがある一方、インフレ圧力下での利益率圧迫や、競合との収益格差というリスクも存在します。今後、コスト管理の高度化、レベニューマネジメントの活用、ブランド価値の維持が、戦略の成否を左右するでしょう。
東横インの挑戦は、「価格競争」と「価値競争」のバランスをどう取るかという、ホテル業界全体にとっての重要な問いを投げかけています。インバウンド需要に沸く業界で、国内顧客との長期的な関係を重視する東横インの戦略が、持続可能な成長につながるかどうか、今後の動向が注目されます。
参考資料:
- ホテル業界 止まらない客室単価の値上げ インバウンド需要で高稼働・高単価が続く | 東京商工リサーチ
- 最新データで解説!東京・全国ビジネスホテル宿泊費相場2025 | 出張支援クラウド『BORDER』
- 創業者である父親に学びながらも常に「自分に何ができるか」を考え続けてきた|経営者インタビュー|黒田麻衣子
- Soaring prices, slipping service: Japan’s hotel industry faces a summer test - China Travel News
- Budget hotel unit price in Japan keeps rising | Travel Voice
- 東横イン 中期経営計画 2025-2027年度
- ビジネスホテルの記録的単価高騰で悩む出張族 | 東洋経済オンライン
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