日韓パスポート不要往来で3200億円効果、実現可能性は
はじめに
韓国財閥3位のSKグループ会長であり、大韓商工会議所会長を務める崔泰源(チェ・テウォン)氏が、「日韓経済共同体」構想を公の場で提唱しました。欧州のシェンゲン協定をモデルに、日韓両国間をパスポートなしで往来できるようにすれば、韓国側だけで少なくとも3兆ウォン(約3200億円)の経済効果が生まれるとの試算です。
訪日韓国人観光客は年間約800万人に迫り、日本からの韓国渡航者も増加傾向にあります。人的交流が活発化する中で出てきたこの大胆な提案は、どこまで現実的なのでしょうか。
本記事では、崔会長の提言内容を詳しく紹介するとともに、参考となる欧州シェンゲン協定の仕組み、実現に向けた課題、そして日韓経済協力の現状について解説します。
崔泰源会長の「日韓経済共同体」構想
提言の概要
2026年1月18日、韓国の公営放送KBSに出演した崔泰源会長は、「日韓経済共同体」の構想を語りました。大韓商工会議所が同日発表した内容によると、欧州をモデルとして日韓両国をパスポートなしに往来できれば、韓国側だけで少なくとも3兆ウォン(約3200億円)の経済効果が生まれるとしています。
崔会長は「政治レベルの交流はようやく始まったが、経済面では水面下で連携が進んでいる」と述べ、両国の経済統合をさらに進めるべきだとの考えを示しました。
崔泰源会長とは
崔泰源氏は1998年から韓国SKグループの会長を務めています。SKグループは半導体メモリ大手のSKハイニックス、移動通信最大手のSKテレコムなど201社の系列会社を擁する韓国屈指の財閥です。
2021年からは大韓商工会議所会長も務め、2023年5月に岸田文雄首相が訪韓した際には、会長の資格で会談を行いました。2024年5月には「半導体分野で日本の製造装置・材料メーカーとの協業・投資を強める」との考えを示すなど、日韓経済協力の推進に積極的な姿勢を見せています。
欧州シェンゲン協定の仕組み
国境検査なしの自由移動
崔会長が参考例として挙げたシェンゲン協定は、1985年にルクセンブルクのシェンゲン村で締結されました。加盟国間での国境検査を廃止し、域内での人・物の自由移動を保障する画期的な取り決めです。
2025年1月1日にブルガリアとルーマニアが全面参加したことで、現在は29カ国が加盟しています。EU加盟国27カ国のうちアイルランドとキプロスを除く25カ国に、非加盟国4カ国(アイスランド、リヒテンシュタイン、ノルウェー、スイス)を加えた構成です。
運用の仕組み
シェンゲン圏内では、最初の到着地で入国審査、最後の出国地で出国審査が行われます。加盟国間の移動は同一国内と同様に扱われ、パスポート検査や税関審査は原則不要です。
対外的には共通のルールを導入し、日本を含む対象国のパスポート所持者は、シェンゲンビザ取得が免除されています。ただし、180日間のうち90日以内という滞在制限があります。
なお、2025年10月からは自動登録による新たな出入域システム「EES」が導入され、事前のオンライン認証(ETIAS)も必要になるなど、セキュリティ面での対応も強化されています。
日韓間の現状と課題
現行の入国制度
現在、日韓間の渡航はすでにかなり簡素化されています。日本国籍者は2026年12月31日まで、K-ETA(韓国電子渡航認証)の申請が免除されており、有効なパスポートさえあればビザなしで韓国に入国できます。
両国の空港には「韓日専用審査台」(優先レーン)も設置されており、出入国手続きの円滑化が進んでいます。出入国在留管理庁も日韓双方における入国手続きの円滑化措置を発表しています。
パスポート不要化への高いハードル
しかし、パスポートを完全に不要とするには、多くの課題があります。
まず、身分証明の問題があります。シェンゲン圏では各国の国民身分証(ID)が有効ですが、日本にはマイナンバーカードはあるものの、国際的に通用する統一的な身分証制度が確立されていません。「住民登録証だけで日本旅行ができる」という韓国側の期待に応えるには、制度設計から始める必要があります。
また、安全保障上の観点も無視できません。テロ対策や不法入国防止のため、国境管理の重要性は増しています。両国政府間でこのような議論が具体的になされているわけではありません。
経済的なメリット
一方で、経済的なメリットは明確です。2023年の訪日韓国人観光客は約696万人で、国籍別トップでした。2024年1月から11月までの累計では約795万人が訪日し、全訪日外国人の23.8%を占めています。
インバウンド消費額も2023年には7,444億円に達し、ピーク時を上回る水準です。入国手続きの簡素化がさらに進めば、双方向の観光需要はいっそう拡大する可能性があります。
日韓経済協力の広がり
半導体を軸とした連携
崔会長の提言は、観光だけでなくより広い経済協力の文脈で理解する必要があります。2025年から2026年にかけて、日韓関係は「実利」重視の連携を深めています。
特に半導体分野での協力が鍵となっています。2023年3月の日韓首脳会談では、日本政府が半導体3品目の輸出管理について2019年以前に戻すことを発表。両国は「経済安全保障に関する協議の創設」で一致しました。
SKハイニックスを率いる崔会長自身も「生成AI向け半導体をはじめとする先端分野の製造で日本のサプライチェーンとの連携が欠かせない」との認識を示しています。
首脳レベルの対話継続
2026年1月13日には奈良で日韓首脳会談が開催され、地域の安全保障、対北朝鮮対策、経済・社会課題について幅広く議論されました。シャトル外交の定着により、首脳相互訪問を中心とした定期的対話が継続しています。
韓国では革新系の李在明大統領が就任後も、両国の産業界から関係改善の継続を期待する声が上がっています。「政治的リスクが経済関係に影響を与えない」という信頼関係の構築が進みつつあります。
今後の展望とまとめ
崔泰源会長が提唱した「日韓パスポート不要往来」は、すぐに実現する構想ではありません。シェンゲン協定は欧州統合の長い歴史の中で実現したものであり、日韓間でこれを模倣するには制度・安全保障・政治の各面で膨大な調整が必要です。
しかし、この提言は日韓経済協力の可能性を考える上で示唆に富んでいます。年間800万人近くが往来する関係において、人的交流をさらに促進することの経済効果は確かに大きいでしょう。
現実的には、K-ETA免除の恒久化、優先レーンの拡充、自動化ゲートの相互利用など、段階的な手続き簡素化が進むと予想されます。その延長線上に、より大胆な統合の議論が生まれる可能性もあります。
日韓関係が安定している今だからこそ、財界トップから出たこの構想は、両国の未来を考える一つの視点として注目に値します。
参考資料:
関連記事
韓国大統領の薄氷バランス外交、日中対立の狭間で模索
韓国の李在明大統領が日中両国との関係構築に腐心しています。1月の中国国賓訪問に続き、日本との「シャトル外交」を継続。米中覇権競争が激化する中、小国が取る「エビ外交」の実態を解説します。
韓国の紅海タンカー容認、ホルムズ代替輸送と軍事護衛の現実度分析
ホルムズ海峡の混乱が長期化するなか、韓国政府が危険を承知で条件付きの紅海経由原油タンカー航行をついに正式に解禁した。サウジアラビアのヤンブー港経由の代替ルートと海軍による継続的な監視・護衛支援体制を組み合わせた原油調達戦略の計算と、エネルギー安全保障政策の歴史的転換が持つリスクと意義を徹底的に分析する。
訪日外国人宿泊減速の詳細分析 中国自粛と航空運賃上昇の二重圧力
訪日宿泊統計の減速要因を中国の渡航回避と燃油高リスクから読み解く需要構造の最新変化
出生減少と都市集中が重なる日本で、混雑感が少子化否定を招く構図
出生数の減少と東京圏集中、出社回帰と訪日客増が重なる都市混雑の構造的読み解きと最新統計
日系人500万人が注目「ルーツツーリズム」の可能性
先祖の故郷を巡るルーツツーリズムの世界的潮流と日本への波及
最新ニュース
ブラジルがBYD「奴隷労働」認定を撤回した背景と波紋
ブラジル政府が中国EV大手BYDを「奴隷労働」企業に認定後わずか2日で撤回し、認定を主導した労働監督局長を解任した。カマサリ工場建設現場で163人の中国人労働者がパスポート没収・賃金搾取の被害に遭った事件の経緯と、中国との外交関係を優先する政治判断が労働者保護を揺るがす構造的問題を読み解く。
AI半導体株高が再点火した理由 世界株高を支える成長と危うさの正体
日経平均は4月14日に5万7877円へ反発し、米ナスダックも戦争ショック後の下げをほぼ吸収しました。なぜAI・半導体株に資金が戻るのか。TSMC、ASML、Broadcom、半導体ETF、原油高との綱引きを手掛かりに、世界株高の持続条件と崩れやすさを解説します。
Amazonのグローバルスター買収 通信衛星戦略と競争環境整理
Amazonは2026年4月14日、Globalstarを総額115.7億ドルで買収すると発表しました。狙いは衛星通信網、Band n53の周波数、Apple向けサービス、そしてDirect-to-Device市場です。Starlink先行の構図の中で、Amazon Leoが何を得て何が課題として残るのかを整理します。
ANA人事騒動は何だったのか 1997年対立と統治改革の起点
1997年のANA人事騒動は、若狭得治名誉会長、杉浦喬也会長、普勝清治社長の対立が表面化し、社長候補の差し替えまで起きた統治危機でした。背景には規制緩和下での旧運輸官僚主導と生え抜き経営のねじれがありました。1999年の無配、取締役31人から19人への削減、スターアライアンス参加へつながる改革の意味を読み解きます。
ANAとJALの上級座席競争を需要回復と機材更新戦略から読む
ANAは2026年8月受領の787-9に個室型ビジネスクラス「THE Room FX」を載せ、JALは2027年度から737-8で国内線ファーストクラスを全国展開します。訪日客4268万人、訪日消費9兆4559億円、国内旅行消費26兆7746億円の時代に、航空会社が座席を上質化する収益戦略を読み解きます。