「祈りの将棋」加藤一二三の長考に込められた棋士の信念と情熱
はじめに
「長考派」ゆえ序盤の熟考は予想していた。しかし6手目に1時間以上もかけるとは——。将棋棋士の先崎学さんが加藤一二三さんとの対局をこう回想しています。
「6手目なんてどの手を指したって勝敗には関係ない」のです。なのになぜ、そこまで時間をかけるのか。
先崎さんはそれを「祈りの将棋」だと言います。一手一手に「祈りが込められている」と加藤さん自身もよく口にしていました。精魂込めていい手を指す。だから自分の将棋に誇りを持てる——。
2026年1月22日、加藤一二三九段が86歳で逝去されました。この記事では、将棋界のレジェンドが貫いた「祈りの将棋」の意味と、63年の現役生活に込められた情熱を振り返ります。
加藤一二三九段の生涯
「神武以来の天才」の登場
加藤一二三さんは1940年1月1日、福岡県に生まれました。1954年8月、当時最年少記録の14歳7カ月で四段に昇段し、史上初の中学生棋士となりました。
1958年には18歳3カ月で順位戦最上位クラスのA級に昇級。この最年少記録は現在も破られておらず、「神武以来(じんむこのかた)の天才」と称されました。「神武以来」とは「日本の歴史始まって以来」という意味で、その才能がいかに稀有なものだったかを物語っています。
23年越しの悲願・名人獲得
タイトル初挑戦から23年、1982年に加藤さんは42歳で名人のタイトルを獲得しました。特に記憶に残るのは1983年の第40期名人戦です。
中原誠名人との七番勝負は、1持将棋2千日手を含む壮絶な戦いとなり、結果的に10番勝負にまで及びました。この激闘の末に勝利を収め、名人位を獲得した加藤さん。中原十六世名人は後に「私が敗れて、残念で忘れられないシリーズとなりました」と振り返っています。
63年の現役生活
加藤さんの現役生活は63年に及びました。2017年6月、77歳5カ月で引退するまで、第一線で戦い続けました。
通算成績は2505局で1324勝1180敗。対局数と敗戦数は史上最多ですが、これは長く戦い続けた証でもあります。通算勝利数は歴代4位を誇ります。
谷川浩司十七世名人は「現役生活63年は誰にも破られない記録でしょう」と称え、「ベテランの域に達しても、自分の子供や孫のような年代の後輩棋士相手に闘志満々で戦う姿は、正に棋士の鑑でした」と述べています。
「祈りの将棋」とは
一手一手に込める祈り
加藤さんの将棋は「祈りの将棋」と呼ばれました。一手一手に精魂を込め、最善手を追求する姿勢がその根底にあります。
序盤から長考するのは、勝敗とは直接関係ないように見える局面でも、最善を尽くそうとする表れでした。「祈りが込められている」という言葉は、将棋を単なる勝負事ではなく、芸術や信仰に近いものとして捉えていたことを示しています。
7時間の長考で見えた一手
長考の有名なエピソードがあります。1968年の第7期十段戦第4局、大山康晴名人への挑戦でのことです。
二日目の初手において、前日の大山の封じ手に対して1時間55分の長考をしました。大山の封じ手は予想通りでしたが、加藤さんは1日目夜の中断時間中に5時間検討し、その上でさらに翌日も2時間近く考えたのです。
「なにかいい手はないか」——昭和43年12月3日の夜、こんこんと考え始め、翌日も2時間考えた末に見えてきた一手。この長考の末につかんだ勝利は、加藤さんに「将棋とは感動できるもの、芸術なのだ」という確信を与えました。
「一分将棋の神様」
興味深いことに、加藤さんの本領は長考だけでなく、秒読みでも発揮されました。
飯塚祐紀七段は「加藤先生は秒読みになると本当にすごい。一切間違えない」と評し、中原十六世名人は「長考よりもむしろ秒読みの時の方が読みが鋭い」「加藤さんと秒読みで指す場合は、95点以上の手を常に指し続けないと勝てない」と語っています。
早指し棋戦であるNHK杯では7回の優勝を誇り、「一分将棋の神様」と称されたこともあります。長考でも早指しでも強い——それが加藤一二三という棋士でした。
「ひふみんアイ」の誕生
相手の視点から見る発想
1978年度の第28期王将戦で、加藤さんは中原誠王将に挑戦していました。3勝1敗で迎えた第5局、長考に沈んでいた時のことです。
中原が席を外した間に、ふと思いついて中原が座っていた場所から盤面を見てみました。すると、それまで見えなかった絶妙手を発見し、その局を勝利しました。
以来、加藤さんは時には対局相手の側から盤面を見るようになりました。この習慣は後に「ひふみんアイ」と呼ばれ、将棋の生中継で天井カメラから盤面を上下反対に表示する際にも使われています。
既成概念にとらわれない柔軟さ
相手の視点から盤面を見るという発想は、一見常識外れに見えますが、「最善手を見つけるためなら何でもする」という加藤さんの姿勢の表れでした。
長年の経験に縛られず、新しい視点を取り入れる柔軟さ。それもまた「祈りの将棋」を支える要素だったのです。
世代をつなぐ一局
藤井聡太とのデビュー戦
2016年12月、加藤さんは76歳にして、プロ入り間もない14歳の藤井聡太四段(当時)と対局しました。これは藤井四段のデビュー戦であり、62歳差という年齢差が大きな話題を呼びました。
結果は藤井四段の勝利でしたが、この対局は将棋界の歴史をつなぐ象徴的な一局となりました。
加藤さん自身が史上初の中学生棋士であり、藤井聡太さんも中学生棋士として頭角を現しました。新旧の天才が盤を挟んで向き合った瞬間は、将棋ファンの記憶に深く刻まれています。
3つの世紀にわたる対局経験
加藤さんは19世紀・20世紀・21世紀の3つの世紀に生まれた棋士と公式戦で対局した、史上唯一の棋士です。また、引退時点において、自らを除く全ての実力制名人と対局経験がありました。
これほど長く、幅広い世代と戦い続けた棋士は他にいません。
社会に愛された「ひふみん」
愛称と流行語大賞
加藤さんは「ひふみん」の愛称で幅広い層から親しまれました。2017年には新語・流行語大賞トップテンに「ひふみん」が入り、将棋ファン以外にもその名が知れ渡りました。
引退後はテレビのバラエティー番組にも多数出演し、独特のキャラクターでファンを魅了しました。
文化への貢献
2000年に紫綬褒章を受章、2022年には文化功労者に選ばれました。将棋界における功績だけでなく、将棋の魅力を広く社会に伝えた貢献が評価されたものです。
カトリック信者としても知られ、信仰と将棋を両立させた生き方は、多くの人に影響を与えました。
追悼の声
羽生善治九段の言葉
羽生善治九段は追悼のコメントで「加藤一二三先生は生涯をかけて将棋に打ち込まれていた偉大な棋士でした。現役生活63年は空前絶後の大記録でありましたし、気力と情熱を失わずに盤上と格闘する姿にいつも敬意を感じていました」と述べました。
また、「子供の頃から沢山の思い出があります」と振り返り、結婚や子供の初聖体にも祝福を受けたというエピソードを明かしています。
棋士の鑑としての評価
谷川十七世名人は「正に棋士の鑑でした」と評し、中原十六世名人は名人戦での激闘を「残念で忘れられないシリーズ」と振り返りました。
対戦相手からも深い敬意を集めた棋士だったことがわかります。
まとめ
加藤一二三九段の「祈りの将棋」は、一手一手に精魂を込め、最善を追求する姿勢を表しています。序盤から長考するのも、相手の視点から盤面を見る「ひふみんアイ」も、全ては最善手を見つけるためでした。
63年の現役生活を貫いた原動力は以下のような信念でした。
- 一手一手への祈り: 勝敗に関係なく最善を尽くす
- 将棋は芸術: 感動を生み出すものとしての将棋観
- 情熱と闘志: 年齢に関係なく戦い続ける姿勢
- 柔軟な発想: 既成概念にとらわれない思考
「6手目なんてどの手を指したって勝敗には関係ない」——そう言われる局面でも長考する。それが加藤一二三という棋士でした。
その姿勢は、将棋を超えて、何かに真剣に取り組むすべての人への教訓を残しています。祈りを込めて、精魂を込めて、一つ一つの仕事に向き合う。加藤一二三九段の「祈りの将棋」は、これからも語り継がれていくでしょう。
参考資料:
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