作家・今野敏が問う「きれいな日本語」とは何か
はじめに
「日本語が乱れている」という指摘は、いつの時代にも繰り返されてきました。警察小説の第一人者として知られる作家・今野敏氏が、日経新聞のコラム「あすへの話題」で「きれいな日本語」をテーマに寄稿し、話題を呼んでいます。
今野氏は自身も「年寄りの文句」と自覚しつつ、大ヒット作品のタイトルに潜む文法的な違和感を具体的に指摘しました。言葉のプロフェッショナルである作家の目に映る「日本語の今」とはどのようなものなのでしょうか。本記事では、今野氏の指摘を起点に、日本語の変化をめぐる議論を掘り下げます。
作家・今野敏とは何者か
警察小説の第一人者
今野敏氏は1955年北海道三笠市生まれの小説家です。上智大学文学部新聞学科在学中の1978年に「怪物が街にやってくる」で問題小説新人賞を受賞し、作家デビューを果たしました。
代表作「隠蔽捜査」シリーズは、原理原則に従って生きる警察官僚・竜崎伸也を主人公に描いた作品です。2006年に吉川英治文学新人賞、2008年には続編「果断 隠蔽捜査2」で山本周五郎賞と日本推理作家協会賞をダブル受賞しています。テレビドラマ化も複数回行われ、警察小説の分野で確固たる地位を築いています。
武道家としての一面
今野氏は作家であると同時に武道家でもあります。大学時代に糸東流空手を学び、1999年からは「空手道今野塾」を主宰して空手や棒術の指導にあたっています。自伝的エッセイ「琉球空手、ばか一代」を著すなど、武道への造詣は深く、「闘う作家」とも称されています。
言葉を操る作家であり、武道という伝統文化の継承者でもある今野氏だからこそ、日本語の正確さに対する感覚は鋭いものがあります。
大ヒット作品に潜む文法的違和感
「鬼滅の刃」は「滅鬼の刃」?
今野氏がコラムで取り上げた一つ目の例は、社会現象となったアニメ「鬼滅の刃」です。漢文の語順に従えば、「鬼を滅する」は「滅鬼」と表現するのが本来の形です。「鬼滅」という語順は、日本語の動詞的な語感で「鬼を滅ぼす」を縮めたものと解釈できますが、漢語の構成原理からすると「滅鬼」が正しいのではないか、という指摘です。
もちろん、「鬼滅の刃」はすでに国内外で広く認知されたタイトルであり、今さら変更できるものではありません。しかし、字義と語順の関係を考えると、言葉のプロフェッショナルには気になるポイントなのです。
「龍が如く」は「龍の如く」?
もう一つの例は、人気ゲームシリーズ「龍が如く」です。古語の助動詞「ごとし」に接続する場合、名詞(体言)には通常「の」を用いるのが文法的に正確です。つまり「龍の如く」が標準的な表現です。
この問題はインターネット上でも以前から議論されてきました。古文の文法では、連体修飾格の「が」も存在するため、完全な誤りとは言い切れません。しかし、現代日本語の感覚からすれば「龍の如く」の方が自然であり、国語教育の観点からも正しいとされています。
いずれの作品もメガヒットを記録しており、文法的な正確さよりも語感やインパクトが優先された結果です。それでも作家の目にはどうしても引っかかる、という今野氏の率直な告白は共感を呼びます。
「日本語の乱れ」か「言葉の変化」か
文化庁の世論調査が示す現実
文化庁が毎年実施している「国語に関する世論調査」は、日本語の変化を定量的に捉える貴重なデータです。調査結果によると、「ら抜き言葉」(「見れた」「出れる」など)の使用率は年々上昇しており、若年層では76%以上が日常的に使用しています。
「敬語の使い方」に問題を感じる人は63.4%、「若者言葉」に違和感を持つ人は61.3%にのぼります。特に16~19歳では「若者言葉」を使っている自覚がある人が84.4%と高く、世代間のギャップが鮮明です。
言語学者の見方
言語学の立場からは、「言葉の変化」は自然な現象であり、「乱れ」と捉えること自体に疑問を投げかける声もあります。歴史的に見れば、現代の「正しい日本語」とされる表現の多くも、かつては「乱れ」と批判されたものです。
たとえば「捏造」は本来「でつぞう」と読みますが、現在では「ねつぞう」が標準的な読み方として定着しています。このような「慣用読み」は、誤用が広がって定着した結果、正しい読みとして認められたものです。
ポップカルチャーが言葉を変える
「鬼滅の刃」や「龍が如く」のようなメガヒット作品は、数百万人、数千万人の目に触れます。文法的に不正確な表現であっても、作品の知名度によって自然な日本語として受け入れられていく可能性があります。
英語由来の「エビデンス」「リストラ」「インフラ」などの外来語は、すでに日常語として新聞紙面にも登場しています。また「ヤバい」「エモい」「バズる」といったSNS発の若者言葉も、テレビ番組や日常会話に浸透しています。言葉は生きものであり、時代とともに変化するのは必然です。
注意点・展望
今野氏の指摘は、「正しい日本語を守れ」という原理主義的な主張ではありません。自らを「年寄りの文句」と位置づけつつ、それでも気になってしまうという率直な感覚を述べたものです。
重要なのは、言葉の変化を一方的に「乱れ」と断じることでも、すべてを「変化」として受け入れることでもありません。変化の中にも守るべき論理や美しさがあり、それを意識し続けることが「きれいな日本語」を考えるということなのでしょう。
デジタル化やグローバル化が進む中、日本語はさらに速いスピードで変化していくことが予想されます。AIによる文章生成が普及する時代だからこそ、言葉の正確さや美しさを意識する作家の視点は、より重要な意味を持つのかもしれません。
まとめ
作家・今野敏氏が提起した「きれいな日本語」の問いは、言葉のプロフェッショナルならではの鋭い視点に基づいています。「鬼滅の刃」や「龍が如く」といった大ヒット作品の文法的な違和感を指摘しつつも、それが今さらどうにもならないことも理解しているという姿勢は、日本語の変化に向き合う一つの態度を示しています。
日本語は時代とともに変わり続けるものです。しかし、変化の中にある法則や美しさに気づく目を持ち続けることが、日本語を豊かに保つ鍵となります。今野氏のコラムは、日々何気なく使っている言葉に改めて意識を向ける、よいきっかけとなるのではないでしょうか。
参考資料:
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