「モノよりコト」消費論のワナと訪日客の本音
はじめに
「モノからコトへ」──このスローガンは消費トレンドを語る上で頻繁に引用されます。モノ(製品)よりコト(体験)を重視する消費者が増えているという認識は、マーケティングや経営戦略の前提として広く受け入れられてきました。
しかし、このスローガンが政策議論に持ち込まれると、思わぬ落とし穴が生じることがあります。2025年に自民党内で議論されたインバウンド向け消費税免税制度の廃止論では、「モノからコトへ」を根拠に免税廃止を正当化しようとする動きがありました。
本記事では、免税制度をめぐる議論と、訪日客の消費実態から見える「モノよりコト」論の限界について解説します。
免税制度廃止をめぐる議論
廃止論の背景
自民党内で2025年に議論されたインバウンド向け消費税免税制度の廃止論は、海外では一般的な非居住者への免税をやめ、税収を増やすことを狙いとしていました。現行制度では免税購入品の国外持ち出しが担保されておらず、消費税額を上乗せした国内転売により不当に利益を得ている事例が問題視されていたことも背景にあります。
廃止を主張する側からは「モノからコトへ」というスローガンが持ち出されました。訪日客の消費トレンドが体験重視に移行しているのだから、免税制度がなくても問題ないという論法です。
業界からの強い反発
この動きに対し、百貨店などでつくるジャパンショッピングツーリズム協会(JSTO)や旅行会社は強く反発しました。同協会の新津研一代表理事をはじめ、小売業、観光業、旅行業、宿泊業、飲食業、労働組合など17団体が連名で共同提言書をまとめ、免税制度の維持を求めました。
提言書では「外国人旅行者にとってショッピングは訪日目的の第2位」「インバウンド消費の約3割はショッピング消費額が占めている」と指摘。消費税免税による売上は約2兆円と試算され、インバウンド消費全体の約25%を占めていると強調しました。
経済影響の試算
JSTOは訪日意欲の高い海外在住外国人3,258人を対象にアンケート調査を実施しました。その結果、免税制度の廃止は訪日外国人客数および1人当たり消費額にマイナスの影響を与え、訪日外国人による消費総額は1兆4,304億円減少するとの試算を発表しました。
さらに、2024年のデータを基準にすると、日本のGDPは8,470億円減少し、税収も530億円減少すると説明。「旅行者や買い物が減り、逆に税収減になる」という主張に説得力を持たせ、議論はいったん収まりました。
訪日客の消費実態
8兆円を超えたインバウンド消費
2024年の訪日外国人旅行者数は3,687万人、消費総額は8兆1,395億円に達し、いずれも過去最高を更新しました。2025年1〜3月期の消費総額も過去最高の2兆2,720億円を記録しており、インバウンド市場は引き続き拡大しています。
訪日外国人1人あたりの旅行支出は平均22万7千円で、2019年の15万9千円から大幅に増加しました。これは円安効果だけでなく、高所得層の訪日客比率上昇と消費行動の質的変化を反映しています。
「爆買い」は一服、しかしショッピングは健在
確かに消費構造は変化しています。かつて「爆買い」の代名詞だった買物代の構成比は27.3%と、2019年の34.7%から低下しました。中国人観光客による家電やブランド品の大量購入は落ち着き、消費行動は多様化しています。
しかし、買物代が減ったからといってショッピングが重要でなくなったわけではありません。費目別では宿泊費(7.7万円)に次いで買物代(6.6万円)が2番目に高く、飲食費(4.9万円)を上回っています。ショッピングは依然として訪日旅行の重要な構成要素です。
「モノ消費」と「コト消費」の共存
実際の消費行動を見ると、「モノ消費」と「コト消費」は二者択一ではなく、共存しています。国籍・地域別で見ると、東南アジアはモノ消費、欧米諸国はコト消費の傾向がありますが、これはどちらか一方が正しいということではありません。
中国人観光客ではモノ消費が4割を占め、購買意欲の強さが目立ちます。一方で、茶道体験や和菓子作り、農村ツーリズムなど体験型コンテンツへの関心も高まっています。訪日客は「買い物もしたいし、体験もしたい」というのが本音であり、どちらかを選ぶ話ではありません。
「モノからコトへ」論の落とし穴
スローガンの一人歩き
「モノからコトへ」というスローガンは、消費者心理の変化を端的に表現したものとして有用です。製品そのものよりも、その製品を通じて得られる体験や価値を重視する傾向は確かに存在します。
しかし、このスローガンが政策判断や経営戦略に安易に適用されると、問題が生じます。「モノ消費は古い、コト消費が新しい」という単純な図式に当てはめ、ショッピングの価値を過小評価してしまう危険性があります。
消費者の本音を見誤るリスク
新津研一代表理事が危機感を覚えたのは、まさにこの点でした。免税制度廃止派が「モノからコトへ」を根拠として持ち出したとき、それは消費者の本音から乖離した議論になっていました。
訪日客にとってショッピングは「体験」の一部でもあります。日本でしか買えない商品を探し、選び、購入するプロセス自体が旅の楽しみです。「買い物=モノ消費=時代遅れ」という図式は、消費の実態を見誤っています。
体験と購買の境界
そもそも「モノ」と「コト」を明確に分けること自体に無理があります。例えば、百貨店で職人の実演を見ながら工芸品を購入する行為は、モノ消費でしょうかコト消費でしょうか。化粧品売り場でカウンセリングを受けながら商品を選ぶことは、体験ではないでしょうか。
消費者は「モノかコトか」を意識して選んでいるわけではありません。自分にとって価値のある体験を求めており、その中に購買が含まれることも、含まれないこともあります。
免税制度の今後
リファンド方式への移行
最終的に免税制度は廃止されず、不正防止に向けた制度改正が行われることになりました。2026年11月から、空港などでの出国時に免税分を払い戻す「リファンド方式」に変更されます。
現行制度では店頭で消費税が免除されていましたが、新制度では訪日客は一旦消費税込みの金額で購入し、出国時に還付手続きを行います。これにより、購入品の国外持ち出しが担保され、国内転売への悪用が防止されます。
事業者の対応
リファンド方式への移行に伴い、小売事業者にはシステム対応が求められます。POSシステムや免税販売管理システムの見直し、リファンド事業者とのデータ連携機能の整備などが必要です。
また、「購入時は税込価格での精算」「出国時に還付を受ける」といった仕組みを訪日客に説明する接客力も求められます。2026年11月までの準備期間は限られており、早期の対応が重要です。
注意点と今後の展望
消費トレンドを読み解く難しさ
「モノからコトへ」のような分かりやすいスローガンは、複雑な消費動向を単純化しすぎる危険性があります。政策立案や経営判断においては、スローガンではなく実際のデータに基づいた分析が不可欠です。
JSTOが実施したような消費者調査の結果は、スローガンが語らない消費者の本音を明らかにしています。訪日客にとってショッピングが重要な訪日目的であり続けているという事実は、「モノよりコト」論の限界を示しています。
インバウンド戦略への示唆
2030年目標(訪日客6,000万人、消費額15兆円)の達成に向け、日本のインバウンド市場は「量」の拡大から「質」の向上へと戦略を転換しています。しかし、「質」の向上を「コト消費へのシフト」と単純に読み替えるのは危険です。
多様な訪日客の多様なニーズに応えることが「質」の向上です。体験コンテンツの充実と同時に、ショッピング環境の整備も重要です。免税店の4割は地方に所在しており、地方への誘客においてもショッピングは重要な役割を果たしています。
まとめ
「モノからコトへ」というスローガンは、消費トレンドを語る上で便利な表現ですが、そのまま政策判断に適用すると落とし穴があります。インバウンド向け免税制度の廃止議論では、このスローガンを根拠に廃止を正当化しようとする動きがありましたが、実際の消費者調査は異なる結果を示しました。
訪日客にとってショッピングは依然として訪日目的の第2位であり、インバウンド消費の約3割を占めています。免税制度廃止による経済損失は1兆円を超えるとの試算もあり、「モノ消費は終わった」という見方は消費者の本音を見誤っています。
消費者は「モノかコトか」を選んでいるのではなく、価値ある体験を求めています。その中にショッピングが含まれることも多く、両者を対立させる議論は実態に合いません。政策やマーケティングにおいては、スローガンではなくデータに基づいた判断が求められます。
参考資料:
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