村木厚子が語るセクハラ対策の原点、小さな一歩の研究会
はじめに
日本経済新聞の人気連載「私の履歴書」で、元厚生労働事務次官の村木厚子氏が自身のキャリアを振り返っています。3月20日掲載の第19回では、1988年に婦人局婦人政策課の課長補佐となり、セクシュアルハラスメント(セクハラ)に関する研究会を立ち上げた経緯が語られました。
男女雇用機会均等法が施行されてわずか2年。「女性に管理職は無理」と公然と語られていた時代に、上司や大蔵省を説得しながら「小さな一歩」を積み重ねた村木氏の姿は、日本の職場における男女平等の歩みそのものです。この記事では、村木氏の取り組みの背景と、それが後のセクハラ防止法制へとつながった意義を解説します。
均等法施行直後の日本の職場
画期的だが「努力義務」にとどまった均等法
男女雇用機会均等法は1985年に制定され、1986年4月に施行されました。国連の女性差別撤廃条約の批准に向けた国内法整備の一環として成立したこの法律は、日本の雇用慣行に一石を投じるものでした。
しかし、経済界からの強い反発を受けて、募集・採用・配置・昇進については「努力義務」にとどまりました。つまり、企業は男女を均等に扱うよう「努力すればよい」という建前にすぎず、法的な強制力はなかったのです。
企業の「強いアレルギー」と女性たちの切実な声
村木氏が婦人局に着任した1988年当時、均等法に対する企業側の拒否反応は根強いものでした。「女性に管理職は無理」という言葉が普通に語られる時代です。制度を作っても、現場の意識がついてこないという深刻なギャップがありました。
一方で、職場の男女平等を求める女性たちの声は強く、均等法制定に関わった同僚は「要望のはがきが大量に届き、枚数を数え切れないので重さを量っている」と語ったといいます。法制度を求める切実な願いと、現実の壁との間で、政策担当者は難しい舵取りを迫られていました。
セクハラ研究会の立ち上げ
「小さな一歩」という戦略
村木氏が1988年に立ち上げたセクハラに関する研究会は、まさに「小さな一歩」の典型でした。当時の日本では「セクシュアルハラスメント」という概念自体がまだ一般的ではなく、職場でのハラスメントは「よくあること」として見過ごされていました。
研究会を立ち上げるにあたり、村木氏は上司と大蔵省(現財務省)の説得に奔走しました。予算を伴う新たな取り組みには大蔵省の理解が不可欠であり、省庁間の調整という官僚の実務能力が問われる場面でした。
1989年、セクハラが社会問題に
村木氏の研究会立ち上げの翌年、1989年に状況は大きく動きます。福岡県の出版社に勤務していた女性が上司によるセクハラを理由に民事裁判を起こしました。この「福岡セクシュアルハラスメント事件」は、職場でのセクハラを初めて正面から問うた訴訟として大きな注目を集めました。
同年、「セクシュアルハラスメント」は新語・流行語大賞の新語部門で金賞を受賞しています。社会全体がこの問題に目を向け始めた時期に、村木氏はすでに行政の内側から対策の土台を築いていたのです。
研究会から法改正へ:長い道のり
1992年の画期的判決
福岡セクハラ訴訟は1992年4月に原告側の全面勝訴で決着しました。この判決は、雇用主にセクハラ防止措置を求める法的根拠を示すものとして、後の法改正に大きな影響を与えました。
1997年均等法改正でセクハラ防止が義務化
研究会から約10年を経た1997年、男女雇用機会均等法が大幅に改正されました。この改正では、募集・採用・配置・昇進における女性差別が「努力義務」から「禁止規定」に格上げされるとともに、事業主に対するセクハラ防止措置の義務化が盛り込まれました。
村木氏が1988年に蒔いた「小さな一歩」の種は、約10年かけて法制度として実を結んだのです。こうした地道な積み重ねは、政策立案の現場でしかわからない息の長い取り組みの好例です。
村木厚子という人物:逆境と復活
冤罪事件を乗り越えて
村木氏のキャリアは順風満帆ではありませんでした。2009年6月、障害者郵便制度の不正利用をめぐる事件で逮捕され、164日間にわたって勾留されました。しかし2010年9月、大阪地裁は無罪判決を言い渡し、後に担当検察官による証拠改ざんが発覚するという前代未聞の事態となりました。
事務次官就任と退官後の活動
無罪確定後、村木氏は2013年7月に厚生労働事務次官に就任しました。女性の事務次官就任は16年ぶり2人目という快挙です。2015年の退官後も、司法制度改革やダイバーシティ推進に関する発信を続けています。
冤罪という過酷な経験を経ても折れなかった精神力の原点は、均等法の施行に携わった時代の「あきらめない」姿勢にあるのかもしれません。
まとめ
村木厚子氏が1988年に立ち上げたセクハラ研究会は、当時としては画期的な「小さな一歩」でした。均等法への企業のアレルギーが強く、セクハラという概念すら定着していない時代に、上司や大蔵省を説得して道を切り拓いた行動力は特筆に値します。
この取り組みは1997年の均等法改正によるセクハラ防止義務化へとつながり、日本の職場環境を変える礎となりました。「私の履歴書」で語られる村木氏の軌跡は、制度を変えるために必要な粘り強さと、一人のキャリア官僚が社会に与えうる影響の大きさを示しています。
参考資料:
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