村木厚子が語る1970年代の就職差別と労働省への道
はじめに
日本経済新聞の連載「私の履歴書」で、元厚生労働事務次官の村木厚子氏が自身の半生を振り返っています。2026年3月の連載では、1974年に高知大学経済学科に進学してから1978年に労働省(現・厚生労働省)に入省するまでの就職活動の壁が語られています。
1970年代の日本は、男女雇用機会均等法(1986年施行)が存在しない時代でした。四年制大学を卒業した女性が民間企業に就職することは極めて困難で、「女子は採らない」という露骨な採用差別がまかり通っていました。こうした逆境の中で、村木氏がどのように労働省への道を切り拓いたのか、当時の社会背景とともに解説します。
高知大学時代:少数派としての大学生活
経済学科の女子学生はわずか6人
村木厚子氏は1955年に高知県で生まれました。もともとは農学部で研究者になることも考えていましたが、就職への実用性を重視して、1974年に高知大学文理学部経済学科に進学しました。
当時の経済学科は約80人の学生が在籍していましたが、そのうち女性はわずか6人でした。それでも「過去で一番多い」と言われるほど、女性の大学進学率が低い時代でした。内閣府の統計によれば、1974年当時の女性の四年制大学進学率は約12%にとどまっていました。
少数派ではあったものの、女子学生同士の結束は強く、喫茶店で情報交換やおしゃべりをしながら大学生活を送っていたといいます。学費は親からの援助と奨学金、そして家庭教師などのアルバイトでまかないました。大学生の家庭教師の時給が高いことに驚いたというエピソードからは、経済的に自立しようとする姿勢がうかがえます。
「大人になったら自分で生きる」という決意
村木氏は「学校を卒業したら大人。自分の生活は自分で支える」という考えを持っていました。この自立への強い意志が、後の就職活動での困難を乗り越える原動力となりました。当時の女性の多くが結婚を機に退職する「寿退社」が当然とされていた時代に、長く働き続けることを前提にキャリアを考えていたのです。
1970年代の就職差別:「女子は採らない」の壁
均等法以前の採用慣行
1970年代後半の就職市場では、女性に対する差別的な採用慣行が公然と行われていました。具体的には以下のような状況がありました。
- 求人に「男子のみ」と明記されることが一般的だった
- 女性の採用条件として「自宅通勤」が求められた
- 「女子若年定年制」として、女性は30歳前後で退職を強要される慣行があった
- 結婚や妊娠を理由とした退職慣行が広く存在していた
- 入社後も女性には「お茶汲み」「掃除当番」などの補助的業務のみが割り当てられることが多かった
こうした差別的慣行は法的に禁止されておらず、1972年に施行された「勤労婦人福祉法」も女性の福祉促進を目的としたもので、採用差別の禁止までは踏み込んでいませんでした。
地方の女性が直面した二重の壁
とりわけ高知のような地方都市では、四年制大学を卒業した女性を採用する民間企業はほぼ皆無でした。村木氏にとって、民間企業への就職という選択肢は事実上閉ざされていたのです。地方在住であること、そして女性であることという「二重の壁」が立ちはだかっていました。
このような環境の中で、村木氏が見出した活路が国家公務員試験でした。公務員試験は性別に関係なく受験できる制度であり、試験の点数で合否が決まるため、少なくとも受験段階では男女平等が確保されていたのです。
労働省への「滑り込み内定」
約800人中、女性はわずか22人
村木氏は国家公務員採用上級甲種試験(現在の総合職試験に相当)に合格しました。高知大学からの合格者は村木氏ただ一人でした。しかし、試験に合格しても、その先にはまた別の壁が待っていました。
当時の中央省庁が採用した上級職キャリア官僚は約800人でしたが、そのうち女性はわずか22人でした。わずか2.75%という極めて低い比率です。しかも、ほぼ毎年女性を採用していたのは労働省くらいで、他の省庁は女性の採用に消極的でした。
労働省が女性を採用した理由
労働省が比較的女性の採用に積極的だった背景には、同省が労働政策や婦人問題を所管していたという事情があります。女性の雇用問題を扱う省庁として、自ら率先して女性を採用する姿勢を示す必要があったのです。それでも村木氏が入省した年に労働省が採用した女性は2人だけでした。
村木氏はまさに「滑り込み」で労働省に内定を得ることができました。この経験が、のちに男女雇用機会均等法の整備や女性政策に携わる原点となっていきます。
入省後の現実と、その後のキャリア
お茶汲みからのスタート
労働省に入省した村木氏を待っていたのは、キャリア官僚としての華やかなスタートではありませんでした。入省初年度は、お茶汲みや床掃除が日常的な業務に含まれていました。深夜2時まで働くこともある激務の中、女性であるがゆえに補助的な業務も求められるという、二重の負担を背負っていたのです。
事務次官への道
しかし村木氏は、こうした環境の中でも地道にキャリアを積み重ねていきました。障害者福祉政策をライフワークとし、雇用均等・児童家庭局長、内閣府政策統括官などの要職を歴任しました。
2009年には郵便不正事件で冤罪逮捕されるという試練に見舞われましたが、2010年に無罪判決を勝ち取りました。その後、2013年には厚生労働事務次官に就任し、松原亘子氏以来16年ぶり、史上2人目の女性事務次官となりました。
注意点・展望
現在も残る課題
男女雇用機会均等法の施行から40年が経過した現在、「女子は採らない」といった露骨な採用差別は法律で禁止されています。しかし、管理職に占める女性の割合は依然として低く、2025年時点で課長相当職以上の女性管理職比率は約13%にとどまっています。
国家公務員の世界でも、女性の事務次官は村木氏を含めてもごくわずかであり、「ガラスの天井」は完全には解消されていません。
「私の履歴書」が投げかけるもの
村木氏の連載は、単なる個人の回顧録にとどまりません。1970年代に「女子は採らない」と言われた時代から、女性が社会で活躍するまでの日本社会の変遷を映し出す貴重な記録です。現在、女性活躍推進法の改正やジェンダーギャップ解消の議論が進む中で、村木氏の経験は多くの示唆を与えてくれます。
まとめ
村木厚子氏の「私の履歴書」は、1970年代の日本における女性就職差別の実態を生々しく伝えています。「女子は採らない」という壁に直面しながらも、国家公務員試験を突破して労働省に「滑り込み内定」を果たした経験は、制度的な機会の平等がいかに重要であるかを示しています。
お茶汲みからスタートし、事務次官にまで上り詰めた村木氏のキャリアは、日本の女性活躍の歩みそのものといえます。この連載を通じて、次世代の働く女性たちが自身のキャリアを考える一助となることが期待されます。
参考資料:
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