村木厚子が語る新人時代の苦悩と女性キャリア官僚の闘いの原点
はじめに
2026年3月、日本経済新聞の「私の履歴書」で、元厚生労働事務次官の村木厚子氏が自身の歩みを連載しています。第15回では、1978年に労働省へ入省した際の「お茶くみ」をめぐるエピソードが語られました。キャリア官僚として採用されたにもかかわらず、「女性だから」という理由で割り当てられたお茶くみ。この経験が、村木氏にとって「あきらめないで闘う原点」となったといいます。
男女雇用機会均等法が成立する7年も前の出来事です。当時の霞が関で女性がどのような環境に置かれていたのか、そして村木氏がどのようにしてその壁を乗り越え、事務次官という官僚の頂点にまで上り詰めたのか。本記事では、村木氏の新人時代のエピソードを軸に、日本の職場における女性の闘いの歴史を振り返ります。
1978年の労働省――女性キャリア官僚が直面した現実
たった22人の女性キャリア官僚
1978年4月、高知大学文理学部経済学科を卒業した村木厚子氏は、労働省(現・厚生労働省)に入省しました。配属先は職業安定局で、学生や失業者、高齢者、障害者の就職問題を扱う部署です。
当時、中央省庁のキャリア官僚約800人のうち、女性はわずか22人しかいませんでした。東京大学出身の男性が圧倒的多数を占める霞が関において、地方国立大学出身の女性は極めて珍しい存在だったのです。
お茶くみをめぐる「激論」
村木氏の配属前日、課内では「お茶くみを女性にさせるかどうか」で激論が交わされたといいます。「女性だからさせよう」という意見と、「キャリア採用だけど大丈夫か」という懸念がぶつかり合いました。上司は「女性だからというのはおかしい」とかけあったものの、結局、村木氏にお茶くみを担当させることに決まりました。
村木氏はこの決定を断ることができず、お茶くみと雑巾がけをしながら通常の業務をこなすことになります。この「断れなかった」ことが、後に大きな後悔となり、同時に「あきらめないで闘う」という姿勢の原点になったと語っています。
均等法以前の日本の職場環境
「補助労働者」としての女性
1978年当時、日本の職場における女性差別は制度的にも文化的にも深く根づいていました。女性の労働人口は約2,010万人で全労働者の37.4%を占めていたものの、多くの企業では女性を「補助労働者」として位置づけていました。
1981年の調査によると、「女子には昇進の機会がない」と回答した企業は45.1%にのぼります。女性の賃金は男性の53.3%にとどまり、教育訓練についても「女子には受けさせない」または「男子と異なる種類のみ」とする企業が60%に達していました。
お茶くみや掃除といった雑務が女性に一方的に割り振られることは、当時の日本の職場では当たり前のこととして受け入れられていたのです。
国際的な潮流と国内法整備の動き
一方で、国際的には女性の権利をめぐる動きが加速していました。1975年の「国際婦人年」を契機に、女性の地位向上と男女平等を目指す国際的な潮流が強まりました。1979年には国連で女性差別撤廃条約が採択されています。
日本国内でも、1978年に労働大臣の私的諮問機関が「婦人労働法制の課題と方向」と題する報告を発表し、男女平等法の制定を提案しました。こうした動きが、1985年の男女雇用機会均等法の成立へとつながっていきます。
村木氏が労働省に入省した1978年は、まさに法整備の「夜明け前」ともいえる時期でした。
お茶くみから事務次官へ――村木厚子のキャリアの軌跡
「手加減しないでほしい」という志
お茶くみを断れなかった村木氏ですが、仕事そのものに対しては強い意志を持っていました。直属の上司に対して「本来の仕事では手加減しないでほしい」と申し出たといわれています。お茶くみや掃除をこなしながらも、男性の同僚と同じレベルの仕事を求めたのです。
この姿勢が、村木氏のキャリアを切り拓いていきました。障害者政策、雇用均等政策、児童家庭政策など、社会的に弱い立場にある人々のための政策に携わり、着実に実績を積み重ねていきます。
冤罪事件を乗り越えて
村木氏のキャリアにおいて最大の試練となったのが、2009年の郵便不正事件です。障害者団体向け郵便割引制度をめぐり、虚偽公文書作成の容疑で大阪地検特捜部に逮捕されました。
164日間にわたる長期勾留の中、村木氏は一貫して無実を主張し続けました。取り調べでは、検察官から「私の仕事は、あなたの供述を変えさせることです」と言われ、話していない内容を記した調書へのサインを求められたといいます。
2010年9月、大阪地裁は村木氏に無罪判決を言い渡しました。さらにその後、担当検事による証拠改ざんが発覚し、検察組織の信頼を揺るがす大事件へと発展しました。
官僚の頂点へ
無罪確定後に復職した村木氏は、2013年7月に厚生労働事務次官に就任します。松原亘子・元労働事務次官以来、16年ぶり2人目の女性事務次官でした。お茶くみからキャリアを始めた女性が、省庁のトップに立つ。その歩みは、日本の女性キャリア官僚の歴史そのものといえます。
2015年の退官後は津田塾大学客員教授に就任し、取り調べの可視化や刑事司法改革、女性活躍推進など幅広いテーマで発信を続けています。
注意点・今後の展望
いまだ残る課題
村木氏の成功は輝かしいものですが、それが示すのは「一人の優秀な女性が壁を突破した」という個人の物語だけではありません。重要なのは、構造的な問題がどこまで解消されたかです。
2026年現在、霞が関における女性の管理職比率は改善傾向にあるものの、依然として十分とはいえません。長時間労働の文化や、育児との両立の困難さなど、女性がキャリアを継続するうえでの障壁は根強く残っています。
「あきらめない」姿勢が問いかけるもの
村木氏が「あきらめないで闘う原点」と語るお茶くみのエピソードは、単なる昔話ではありません。職場における無意識の偏見や、「女性だから」という理由で役割を押しつけられる構造は、形を変えながらも現在の日本社会に存在し続けています。
村木氏の連載は、読者に対して「理不尽に直面したとき、声を上げる勇気を持てるか」という問いを投げかけているといえるでしょう。
まとめ
村木厚子氏の「私の履歴書」第15回は、1978年の労働省入省時にお茶くみを割り当てられたエピソードを通じて、女性キャリア官僚が直面した理不尽と、そこから生まれた闘いの原点を描いています。
男女雇用機会均等法すら存在しなかった時代に、地方国立大学出身の女性として霞が関に飛び込んだ村木氏。お茶くみを断れなかった後悔は、その後の冤罪事件への抵抗や、事務次官としての改革、退官後の社会活動へとつながっていきます。
この連載は、日本の職場における男女平等がどこまで進み、何が未解決のままなのかを考える貴重な機会を提供しています。村木氏の歩みから、私たち一人ひとりが「あきらめない」姿勢の意味を改めて問い直すことができるのではないでしょうか。
参考資料:
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