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by nicoxz

なみえ焼きそばの名店・杉乃家が閉店、50年の歴史に幕

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はじめに

福島県のご当地グルメとして全国的に知られる「なみえ焼きそば」。その名店として親しまれてきた「杉乃家」が、2026年3月末をもって50年の歴史に幕を下ろします。店主の芹川輝男さんは、2011年の東京電力福島第一原発事故で故郷の浪江町を追われた後、二本松市で店を再開し、避難する町民たちをふるさとの味で励まし続けてきました。

「浪江にも店が増え、味をつなぐ役目は果たせた」。芹川さんの言葉には、やり切った安堵がにじみます。原発事故という未曾有の災害の中で、一杯の焼きそばが果たしてきた役割とは何だったのか。杉乃家の歩みを通して、被災地の食文化と復興の意味を考えます。

杉乃家の50年とふるさとの味

原発景気に沸いた浪江での創業

杉乃家の歴史は、1976年にさかのぼります。芹川輝男さんは26歳のとき、横浜のそば屋で修業を積んだ後、その屋号をもらい受けて浪江町に店を構えました。ちょうど福島第一原子力発電所の3号機が営業運転を開始した1976年前後のことです。その後も4号機(1978年)、5号機(1978年)、6号機(1979年)と次々に稼働し、浪江町を含む双葉郡一帯は原発景気に沸いていました。

発電所の作業員や関連企業の従業員が行き交う中、杉乃家は繁盛を続けました。なみえ焼きそばは、もともと1950年代に浪江駅近くの居酒屋「縄のれん」が考案したとされる料理で、通常の約3倍の太さを持つ極太麺に、豚肉ともやしというシンプルな具材を合わせ、ラードで炒めて濃厚なソースで味付けするのが特徴です。労働者のために生まれた、腹持ちの良いボリューム満点の一品でした。杉乃家はその伝統を受け継ぎつつ、独自の工夫を加え、浪江を代表する味として地域に根づいていきました。

原発事故と避難、二本松での再出発

2011年3月11日、東日本大震災が発生し、福島第一原子力発電所は未曾有の事故を起こしました。浪江町全域が避難指示区域に指定され、約2万1,000人の町民が故郷を離れることを余儀なくされました。芹川さん一家も例外ではありませんでした。

しかし、芹川さんは避難先での生活が始まってわずか4か月後の2011年7月、二本松市のJR二本松駅近くにある市民交流センター内に店を再開させました。二本松市には浪江町の仮設住宅が設けられ、約8,000人もの町民が避難生活を送っていたのです。故郷を失った人々にとって、杉乃家の焼きそばは単なる食事ではなく、浪江とのつながりを確認できる心の拠りどころでした。

避難先での15年間、杉乃家は芹川輝男さん、妻の春子さん、長男の勇慈さんの3人で切り盛りしてきました。芹川さんはこの体制を「三本の矢」と表現しています。

B-1グランプリ日本一と商標問題の波紋

全国に広がった浪江の味

なみえ焼きそばの知名度を全国区に押し上げたのは、ご当地グルメの祭典「B-1グランプリ」での活躍です。2008年に浪江町商工会青年部が中心となって「浪江焼麺太国(なみえやきそばたいこく)」という町おこし団体を設立し、B-1グランプリへの参戦を開始しました。

震災と原発事故でメンバーが離散した後も活動を続け、2011年の姫路大会で4位、2012年の北九州大会でも4位と健闘しました。そして2013年11月、愛知県豊川市で開催された第8回大会では見事1位に輝き、ゴールドグランプリを獲得しました。原発事故で故郷を追われた人々が全国の頂点に立ったこの快挙は、被災地に大きな希望をもたらしました。

その後、浪江町の一部で避難指示が解除されると、町内にもなみえ焼きそばを提供する飲食店が徐々に増えていきました。道の駅なみえをはじめ、複数の店舗が営業を行い、観光客や帰還した住民にふるさとの味を届けています。

商標をめぐる騒動と杉乃家の決断

しかし、2025年には「なみえ焼そば」の商標をめぐる問題が持ち上がりました。商標を保有する浪江町商工会が、同年5月に飲食店に対して1社あたり3,000円の登録料と売上の2.5%のロイヤリティを徴収する方針を通知したのです。

この方針は、震災前から長年にわたりなみえ焼きそばを提供してきた杉乃家のような老舗にも適用されるものでした。杉乃家は2025年10月から「杉乃家の焼そば」とメニュー名を変更し、「なみえ焼そば」の名称の使用を取りやめました。

SNS上ではこの対応に対して批判が殺到し、「復興のシンボルだった味を商標権で縛るのか」という声が広がりました。同年11月、商工会はロイヤリティ徴収の方針を撤回し、既に集めた登録料の返金を発表しました。商工会側からの謝罪を受け入れた杉乃家でしたが、芹川さんは「なみえ焼そば」の名称には戻さないことを表明しています。

閉店の決断とふるさとの味の行方

「三本の矢」の一本が欠けて

2026年3月末の閉店を決断した直接のきっかけは、妻の春子さんが体調を崩し、治療に専念することになったことでした。芹川輝男さんは「杉乃家は『三本の矢』。一人でも欠けたら店を続けることはできない。長年苦労をかけた妻に孝行したい」と語っています。

浪江で35年、二本松で15年。合わせて50年にわたり、杉乃家は地域の人々の食卓を支えてきました。特に避難先の二本松では、ふるさとの味を求めて訪れる浪江町民にとって、かけがえのない存在でした。

浪江町の現在と味の継承

2026年現在、浪江町の住民登録人口は約1万4,100人ですが、実際に町内に居住しているのは約2,400人にとどまっています。2024年末に実施された住民意向調査では、「帰還したい」と答えた人は12.4%にとどまり、「帰還しないと決めた」人は51.3%に達しています。

しかし、町内にはなみえ焼きそばを提供する店舗が増え、道の駅なみえなどの商業施設も整備されました。2023年には浪江町で12年ぶりとなる「東北五大やきそばサミット」が開催され、なみえ焼きそばが「人が集まる町」づくりの核として改めて注目されています。芹川さんが「味をつなぐ役目は果たせた」と語る背景には、浪江町で新たな担い手が育っているという確信があるのでしょう。

注意点・展望

杉乃家の閉店は、一つの飲食店の物語にとどまりません。東日本大震災と原発事故から15年が経過する中で、被災地のコミュニティや文化がどのように維持され、変容してきたかを象徴する出来事です。

福島県は「福島県文化振興基本計画」において食文化の継承と振興を推進施策に掲げ、地域ごとの特色ある食文化を掘り起こして次世代に引き継ぐ取り組みを進めています。原発事故により住民が散り散りになった地域では、食文化の継承が単なるグルメの話にとどまらず、コミュニティの絆を維持する重要な役割を担ってきました。

浪江町の居住人口が震災前の1割強にとどまる中、なみえ焼きそばのような地域の食文化をどう継承していくかは、今後も大きな課題です。商標問題のような摩擦を乗り越えながら、「味をつなぐ」ための仕組みづくりが求められています。

まとめ

杉乃家の50年間は、浪江町の繁栄と苦難をそのまま映し出す歴史でした。原発景気に沸いた創業期、震災と原発事故による避難、そして二本松での再出発。芹川輝男さん一家は「三本の矢」として、ふるさとの味を守り続けてきました。

浪江町では新たな担い手たちがなみえ焼きそばの味を受け継ぎ、町の再生に取り組んでいます。杉乃家がのれんを下ろしても、その味と精神は浪江の街で生き続けるでしょう。一杯の焼きそばに込められた故郷への思いは、震災から15年が経った今もなお、被災地の人々を静かに励まし続けています。

参考資料:

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