PayPay海外上場が示す東証空洞化の深刻な現実と課題
はじめに
2026年の東京株式市場は日経平均株価が5万円台を回復し、年内6万円到達の予想も出るなど、表面的には好調に見えます。しかし、新規株式公開(IPO)市場に目を向けると、深刻な問題が浮かび上がります。日本を代表するフィンテック企業PayPayが東京証券取引所ではなく、米国市場での上場を選択したのです。この動きは、有力な国内企業までもが東証を素通りする「IPO空洞化」の象徴的な出来事として、市場関係者に大きな衝撃を与えています。本記事では、PayPayの海外上場計画の背景と、日本のIPO市場が直面する構造的課題について詳しく解説します。
PayPayの米国IPO計画の全容
上場規模と評価額
PayPayは2025年8月、米国での新規株式公開に向けた機密申請を行いました。調達額は約20億ドル(約3,000億円)と予想され、企業価値は100億から120億ドル(約1兆5,000億円から1兆8,000億円)と見積もられています。これは日本企業による米国テック市場での上場としては過去最大級の規模となります。
上場先は明示されていませんが、ニューヨーク証券取引所(NYSE)が有力視されています。PayPayの普通株式を表すアメリカ預託株式(ADS)の形式で取引される見込みで、上場時期や価格帯は今後の市場環境と米証券取引委員会(SEC)の審査完了状況によって決定されます。
なぜ米国を選んだのか
PayPayが東京証券取引所ではなく米国市場を選んだ理由は複数あります。第一に、米国市場の方が成長企業への評価が高く、より高い企業価値での上場が期待できることです。特にフィンテック企業に対する投資家の理解が深く、将来性を重視した評価を得やすい環境があります。
第二に、グローバルな投資家層にアクセスできることです。米国市場に上場することで、世界中の機関投資家や個人投資家から資金を調達できる可能性が広がります。国内市場に限定されない資金調達チャネルを確保できることは、今後の事業拡大において大きなアドバンテージとなります。
第三に、上場プロセスの柔軟性と迅速性です。機密申請の仕組みにより、市場環境が良好なタイミングで公開できる自由度があり、不確実性を軽減できます。米国市場での上場準備期間は、日本の約半分とされ、ビジネスチャンスを逃さずに資金調達できる利点があります。
日本企業の海外IPOトレンド
ナスダック上場の光と影
PayPayだけでなく、近年多くの日本企業が海外上場を検討しています。特にナスダックは、東証グロース市場(旧マザーズ)よりも魅力的な選択肢として、日本企業の誘致に積極的に取り組んできました。ナスダック上場の最大の魅力は、高い将来性を持つ企業であれば、大幅な赤字でも上場できることです。先行投資が必要な成長企業にとって、これは大きなメリットとなります。
しかし、成功例ばかりではありません。2023年にナスダックに上場した日本企業7社のうち、4社が2024年までに上場廃止を決定しました。つまり、半数以上が1年から2年以内に市場から退出したことになります。メディアアーティスト落合陽一氏が会長CEOを務めるピクシーダストテクノロジーズも、2023年8月の上場からわずか1年3ヶ月後の2024年11月に上場廃止となりました。
海外上場の高いコスト
上場廃止の主な理由は、維持コストの高さです。円安の影響もあり、ナスダック上場の維持コストは日本の株式市場の約1.5倍から2倍に達します。監査費用、法務費用、IR活動費用など、グローバル基準での開示要求に対応するコストは、小規模な企業には大きな負担となります。
さらに、海外投資家とのコミュニケーションには言語の壁もあります。英語での決算説明会、IR資料の作成、投資家との個別面談など、日本市場以上の労力とコストがかかります。期待した資金調達やバリュエーションの向上が実現しなかった場合、高コストだけが残る結果となってしまいます。
それでも魅力的な海外市場
高い失敗率とコストにもかかわらず、海外上場を目指す日本企業が後を絶たない理由があります。それは、成功した場合のリターンが国内上場を大きく上回る可能性があるからです。グローバル市場での認知度向上、優秀な人材の獲得、海外企業との提携機会の拡大など、金銭的価値以外のメリットも大きいのです。
東証グロース市場改革の限界
時価総額100億円の壁
東京証券取引所は2025年9月、グロース市場の上場維持基準を大幅に厳格化しました。2030年3月以降、上場から5年経過後は時価総額100億円以上を維持しなければ上場廃止となる新基準が導入されます。従来は上場10年経過後から40億円以上という基準でしたが、これが大幅に引き上げられたのです。
この改革の狙いは、グロース市場を「高い成長を目指す企業が集う市場」として機能させることにあります。しかし現状では、新規上場後に時価総額が10倍以上に成長した企業は全体の5%程度に過ぎません。多くの企業が100億円の壁を越えられずに苦戦している実態があります。
TOKYO PRO Marketへの流出
厳格化の影響は、すでにIPO動向に現れています。2025年6月末時点で、グロース市場の新規上場企業数が18社だったのに対し、TOKYO PRO Market(プロ投資家向け市場)の新規上場は21社と、グロース市場を上回りました。これは異例の事態です。
TOKYO PRO Marketは上場基準が緩やかで、維持コストも低い一方、一般投資家が参加できないため流動性が限られます。本来であればグロース市場に上場すべき成長企業が、厳しい基準を避けてプロ市場に流れている構図は、グロース市場改革が意図しない結果を招いている証左と言えます。
改革のジレンマ
東証は「質の高い成長企業を育てる」という目標と、「多様な企業に上場機会を提供する」というバランスに苦慮しています。基準を厳しくすれば、質は上がる一方で、上場企業数は減少します。逆に基準を緩めれば、企業数は増えるものの、市場全体の信頼性が低下するリスクがあります。
さらに、成長企業の定義自体が時代とともに変化しています。かつては売上高や利益の成長が重視されましたが、今日ではユーザー数、市場シェア、技術的優位性など、多様な指標で企業価値が測られます。従来型の時価総額基準だけで成長性を評価することの限界も指摘されています。
IPO空洞化がもたらす深刻な影響
資本市場の縮小
有力企業の海外流出は、日本の資本市場全体の規模縮小につながります。大型IPOは市場の活性化と投資家の関心を集める重要な役割を果たしますが、これが海外に流れることで、東京市場の存在感が低下します。特に個人投資家にとって、魅力的な投資機会が減少することは、市場参加意欲の低下を招きかねません。
また、証券会社、監査法人、法律事務所など、IPO関連ビジネスに携わる専門家集団の活動機会も減少します。これは日本の金融産業全体の競争力低下につながる恐れがあります。
スタートアップエコシステムへの影響
IPO市場の魅力が低下すれば、ベンチャーキャピタルの投資意欲にも影響します。VCは最終的にIPOやM&Aでエグジットして投資回収を図りますが、国内IPO市場が縮小すれば、回収の選択肢が狭まります。結果として、日本のスタートアップへの投資額が減少し、イノベーションの源泉が失われる悪循環に陥る可能性があります。
優秀な起業家が最初から海外市場を目指すケースも増えています。シリコンバレーやシンガポールに拠点を移し、グローバル市場を最初から視野に入れた事業展開を行う起業家が増えれば、日本発のユニコーン企業が減少することになります。
投資家の機会損失
日本の個人投資家は、PayPayのような有力企業の成長に投資する機会を失います。米国市場に上場されても、一般の日本人投資家が気軽に投資することは容易ではありません。為替リスク、海外証券口座の開設、税務処理の複雑さなど、様々な障壁があります。
本来であれば、日本のインフラを利用して成長した企業の果実を、日本の投資家が享受できる仕組みが望ましいはずです。しかし現状では、その機会が海外投資家に移転してしまっているのです。
東京市場が取り戻すべき競争力
評価基準の多様化
時価総額だけでなく、企業の成長性を多面的に評価する基準が必要です。例えば、ユーザー成長率、技術革新性、社会的インパクトなど、非財務指標も含めた総合評価の仕組みを導入することで、より多様な成長企業を受け入れられます。
ESG投資の観点からも、財務数値以外の要素が重視される時代です。東証がこうした新しい評価軸を積極的に取り入れることで、グローバル基準に合致した市場として再評価される可能性があります。
上場プロセスの効率化
米国市場の上場準備期間が日本の約半分という事実は、日本の審査プロセスに改善の余地があることを示しています。機密申請制度の導入や、審査基準の明確化、デジタル化による手続きの簡素化など、企業にとって予見可能で効率的なプロセスを構築すべきです。
特に成長スピードの速いテック企業にとって、上場準備に長期間を要することは大きな機会損失です。市場環境が良好なタイミングで迅速に上場できる柔軟性は、市場の魅力を高める重要な要素となります。
グローバル投資家の誘致
東京市場の流動性を高めるためには、海外機関投資家の参加を促進する必要があります。英語での情報開示の充実、国際会計基準の採用促進、取引時間の延長など、グローバルスタンダードに合わせた環境整備が求められます。
また、日本市場固有の魅力を発信することも重要です。安定した法制度、高い技術力を持つ企業群、アジア市場へのゲートウェイとしての地理的優位性など、日本ならではの強みを戦略的にアピールすることで、投資家の関心を引くことができます。
まとめ
PayPayの米国上場計画は、単一企業の経営判断を超えた、日本の資本市場全体が抱える構造的課題を浮き彫りにしました。東証グロース市場の改革が進む一方で、厳格化した基準がかえって企業を他市場に流出させる皮肉な結果も生んでいます。
日本のIPO市場が競争力を取り戻すためには、評価基準の多様化、上場プロセスの効率化、グローバル投資家の誘致という三つの方向性が重要です。時価総額という単一指標に固執せず、多面的に企業価値を評価する柔軟な仕組みが求められます。
東証が「日本株再生」を実現し、PayPayのような有力企業を国内に引き留めるためには、これまでの延長線上ではない抜本的な改革が必要です。グローバル市場との競争という視点を忘れず、企業と投資家双方にとって魅力的な市場を構築することが、最後の関門を突破する鍵となるでしょう。
参考資料:
関連記事
最新ニュース
南鳥島でレアアース試掘開始・中国依存脱却への挑戦
探査船「ちきゅう」が南鳥島沖でレアアース泥の試掘を開始。水深6000メートルからの世界初の採掘試験と、日本の経済安全保障における意義を解説します。
1年4カ月で国政選挙3回、頻繁な選挙が招く政策停滞
高市首相が通常国会冒頭での衆院解散を検討。国政選挙が短期間に3回目となり、社会保障改革など長期的視点の政策が後回しになる懸念が高まっています。
第174回芥川賞・直木賞が決定、3氏が受賞の栄誉
第174回芥川賞に鳥山まこと氏「時の家」と畠山丑雄氏「叫び」、直木賞に嶋津輝氏「カフェーの帰り道」が決定。前回の両賞該当なしから一転、充実の受賞作が揃いました。受賞作の魅力と作家の経歴を詳しく解説します。
日本人創業のアルパカがユニコーンに、米国初の快挙
証券取引APIを提供するフィンテック企業アルパカが企業価値10億ドルを突破。日本人だけで創業した新興企業として米国初のユニコーン達成の背景を解説します。
三六協定の締結率5割どまり、残業規制緩和の是非を問う
三六協定を締結している事業所は5割にとどまり、残業規制緩和の議論が活発化しています。働き方改革の効果と今後の労働政策の方向性について、最新データをもとに解説します。