円安で喜ぶタイ人観光客と内向き化する日本人の現実
はじめに
「日本は何でも安い」――こうした声が、アジア各国の観光客から聞かれるようになりました。2025年の訪日外国人旅行者数は4268万人と初めて4000万人を突破し、過去最高を記録しています。インバウンド消費額も9.5兆円に達し、日本経済にとって無視できない存在となりました。
その一方で、日本人のパスポート保有率は約17%まで低下し、海外旅行に「一度も行かない」と答える人が約8割にのぼるという調査結果もあります。円安がもたらす「安いニッポン」は、訪日客にとっては恩恵ですが、日本人にとっては購買力の低下を意味します。本記事では、タイ人観光客の急増を切り口に、円安がもたらす日本の観光経済の構造変化を読み解きます。
タイ人観光客が殺到する「安いニッポン」
バーツ高・円安が生む価格メリット
タイバーツと日本円の為替レートは、タイ人にとって大きな追い風となっています。2025年12月時点で1タイバーツは約4.94円と、近年の最高値圏で推移しています。かつて「物価の安い国」とされていたタイですが、バーツ高と国内物価の上昇により、タイ国内での買い物よりも日本の方が割安に感じられるケースが増えています。
高島屋新宿店などの百貨店では、タイからの観光客がスニーカーや化粧品を大量に購入する姿が日常的に見られます。特にスイス発のスポーツブランド「On」のスニーカーは、タイよりも日本の方が品揃えが豊富で価格も安いため、自分用だけでなく友人へのプレゼントとしてまとめ買いするケースが多いとされています。
訪日タイ人の消費額は過去最高
2025年の訪日タイ人数は123万3100人で、前年比7.3%増と堅調に推移しました。コロナ前の2019年(131万8977人)にはまだ届いていないものの、回復基調は明確です。特筆すべきは消費額の伸びで、訪日タイ人の旅行消費額は2512億円と過去最高を更新しました。2019年比では約1.5倍という大幅な増加です。
12月の訪日タイ人数は2019年を約1万人上回り、同月として過去最多を記録しています。タイの12月は長期休暇シーズンにあたるため、日本の冬を楽しむタイ人旅行者が年々増えています。タイでは体験できない雪景色や温泉、冬の味覚が人気を集めています。
訪日4000万人時代の到来と円安の構造
過去最高を更新し続けるインバウンド
2025年の訪日外国人旅行者数は4268万人と、前年比15.8%増で過去最高を大きく更新しました。国・地域別では韓国が945万人でトップ、次いで中国が909万人、台湾が676万人と続きます。オーストラリアも初めて100万人を突破し、7つ目の「100万人市場」となりました。
インバウンド消費額は9兆4559億円に達し、前年から約1.3兆円の上積みとなっています。国別では中国が2兆26億円で全体の21.2%を占め、唯一2兆円の大台に乗りました。円安に加え、日本の観光インフラの充実や免税制度の利便性が、消費額の押し上げに寄与しています。
ビッグマック指数が示す「安い日本」
日本の物価水準の低さを端的に示すのが、英エコノミスト誌が発表する「ビッグマック指数」です。2025年の調査で日本は世界44位と、先進国の中では極めて低い水準に位置しています。1位のスイスではビッグマックが1207円と日本の2倍以上の価格です。
この指数は購買力平価の簡易版として知られますが、日本円の実勢レートと購買力平価との乖離は80%以上に達しているとの分析もあります。つまり、為替レートで換算した日本の物価は、本来の経済力から見て大幅に割安な状態が続いているのです。ドル円レートは2025年後半に157円台まで円安が進み、2026年に入っても150円前後で推移しています。
海外旅行離れが進む日本人の「内向き化」
パスポート保有率17%の衝撃
日本人のパスポート保有率は2024年末時点で約17%まで低下しました。2010年代には22〜24%程度で推移していたことを考えると、大幅な落ち込みです。2024年のパスポート発行数は382万冊にとどまり、低迷が続いています。
JTBの調査によれば、2025年に「海外旅行に一度も行かない」と答えた人は78.9%にのぼります。その理由として「旅行費用が高いから」(33.6%)、「家計に余裕がないから」(26.4%)、「円安だから」(24.4%)が上位を占めました。円安による海外旅行費用の高騰が、日本人の「内向き化」を加速させています。
回復は鈍い日本人の海外旅行
2025年の日本人出国者数は約1410万人と前年比108.5%で増加はしているものの、コロナ前の2019年(約2000万人)と比べると7割未満の水準にとどまっています。2026年の見通しも1550万人と微増にとどまり、コロナ前への完全回復は見通せない状況です。
「ハワイではラーメン1杯5000円」といった報道が象徴するように、円安下での海外旅行は金銭的負担が大きくなっています。特に若年層を中心に「国内旅行の方がいい」「海外に関心がない」という声も増えており、経済的理由だけでなく価値観の変化も背景にあります。
注意点・今後の展望
円安の恩恵と代償のバランス
インバウンド4000万人・消費額9.5兆円という数字は、日本の観光産業にとって大きな成果です。しかし、その裏側で日本人の購買力が相対的に低下し、海外旅行が「ぜいたく品」になりつつある現実を見落としてはなりません。
円安は輸出企業やインバウンド関連産業には追い風ですが、輸入物価の上昇を通じて国民生活を圧迫します。「安いニッポン」を喜ぶのは外国人観光客であり、日本に住む人々にとっては実質的な所得の目減りを意味します。
2026年の為替見通しと観光への影響
2026年のドル円レートは150円前後が続くとの見方が多く、大幅な円高への転換は見込みにくい状況です。日銀の金融政策の正常化がどの程度進むかが鍵となりますが、米国のインフレ動向や金利政策にも左右されるため、不確実性は高い状態が続きます。
タイ人観光客を含むアジアからのインバウンドは今後も増加が見込まれます。一方で、オーバーツーリズム(観光公害)への対応や、インバウンド依存の経済構造のリスクも意識する必要があります。
まとめ
円安を背景に、タイ人をはじめとする外国人観光客にとって日本は「お買い得な国」となり、訪日客数・消費額ともに過去最高を記録しています。しかし同時に、日本人の海外旅行離れとパスポート保有率の低下は、購買力の衰えと国際感覚の希薄化を示す懸念材料です。
インバウンドの経済効果を享受しつつも、円安に頼るだけでない観光戦略の構築が求められます。日本人が海外に出る機会を増やし、国際的な視野を維持することも、長期的な国力の維持には欠かせません。「安いニッポン」の恩恵と代償を、私たち一人ひとりが考える時期に来ています。
参考資料:
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