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by nicoxz

公海保護条約が発効、大国の新たな競争の舞台へ

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はじめに

2026年1月17日、画期的な国際条約「国連公海等生物多様性協定(BBNJ協定)」が発効します。地球表面の4割、海洋面積の6割を占める公海と深海底を保護するこの条約は、「海の憲法」とも呼ばれる国連海洋法条約以来の歴史的な成果です。しかし、理想的な海洋保護の枠組みである一方で、公海はすでに大国間の新たな競争の舞台となっています。海底ケーブル、深海資源、海洋遺伝資源をめぐる覇権争いは激化しており、BBNJ協定の実効性が問われています。

BBNJ協定とは何か

発効までの道のり

BBNJ協定(Biodiversity Beyond National Jurisdiction Agreement、正式名称は「国家管轄権外区域の海洋生物多様性の保全及び持続可能な利用に関する国連海洋法条約の下での協定」)は、2023年9月に国連で採択され、2025年9月にモロッコが60番目の批准国となったことで発効要件を満たしました。

日本は2025年5月に国会承認を得て、同年12月12日に国連事務総長に批准書を寄託しました。2026年1月時点で、137の国・地域が署名し、60カ国以上が批准を完了しています。

協定の対象範囲

BBNJ協定は、沿岸から200海里を超える公海と深海底を対象とします。これらの海域は、いかなる国の管轄権も及ばない「国家管轄権外区域(ABNJ)」であり、従来は包括的な保護の枠組みが存在しませんでした。

世界の貿易の9割以上を担う海運において、航行ルートの大半がこの公海を通過しています。また、公海は地球の生態系にとって重要な役割を果たしており、その保護は人類共通の課題です。

協定の4つの柱

BBNJ協定は、以下の4つの主要な要素で構成されています。

  1. 海洋保護区(MPA)の設定: 公海上に海洋保護区を設定し、特定の活動を制限または禁止する権限を国際社会に与えます。

  2. 海洋遺伝資源(MGR): 深海生物から得られる遺伝資源の利用と、そこから生じる利益の公正かつ衡平な配分を定めます。

  3. 環境影響評価(EIA): 公海での活動が環境に与える影響を事前に評価することを義務付けます。

  4. 能力構築と海洋技術移転: 途上国が海洋保護に参加できるよう、技術や資金の支援を行います。

大国間の対立が浮き彫りに

ロシアと中国の抵抗

BBNJ協定の交渉過程では、ロシアや中国などが海洋保護区の設定に強い抵抗を示しました。ロシアは、BBNJ協定が国連海洋法条約や国連公海漁業協定などの既存の枠組みを損なうとして、コンセンサスからの離脱を表明しています。

中国とロシアは、海洋保護区内で漁業などの特定の活動が禁止または制限される可能性を懸念しています。両国にとって、公海での自由な活動は経済的・戦略的に重要であり、国際的な規制の強化は受け入れがたいのです。

2026年1月時点で、ロシアは協定に署名も批准もしていない少数派の国の一つです。ロシアは既存のガバナンス枠組みの維持を望み、国際水域での航行の自由と海運が保証されることを主張しています。

米国の立場の揺らぎ

バイデン政権下の米国は、BBNJ協定の交渉で主要な役割を果たし、2023年9月20日に協定に署名しました。2024年12月18日、バイデン大統領は協定を上院に送り、批准の承認を求めました。

しかし、トランプ政権は世界の海洋リーダーシップから後退しており、2025年にニューヨークで開催された2回のBBNJ準備会合に代表団を派遣しませんでした。米国の関与が弱まることは、協定の実効性に大きな影響を及ぼす可能性があります。

先進国と途上国の利害対立

海洋遺伝資源(MGR)をめぐっては、先進国と途上国の間で深刻な対立が存在してきました。途上国は、海洋遺伝資源は「人類の共通の財産」であり、そこから得られる利益は公平に配分されるべきと主張しています。

一方、先進国は、海洋遺伝資源の取得は公海自由の原則に基づき自由であるべきと主張し、知的財産権の保護を重視しています。海洋遺伝資源にアクセスするには高度な技術が必要であり、事実上、利益は先進国による独占状態となっていました。

BBNJ協定は、海洋遺伝資源について利益の公正かつ衡平な配分を行うことを原則としたことで、この長年の対立に一定の決着をつけました。しかし、具体的な実施メカニズムをめぐっては、今後も議論が続くと予想されます。

海底インフラをめぐる新たな戦場

海底ケーブルの戦略的重要性

公海と深海底で最も激しい競争が繰り広げられているのが、海底ケーブルの分野です。人工知能(AI)の処理、軍事的連携、1日10兆ドル(約1,500兆円)に上る金融取引を含む、ほぼ全ての世界的なインターネット通信が海底ケーブルに依存しています。

海底ケーブルは、文字通り現代文明の「命綱」であり、その支配権を握ることは、経済的にも軍事的にも決定的な優位性をもたらします。

米中の海底ケーブル覇権争い

中国は資金援助や安価な入札を通じ、中国主導のケーブル導入を各国に促しています。華海通信技術などの中国企業は、競合より2〜3割安くケーブルを敷設することが可能であり、価格競争力で優位に立っています。

一方、米国は資金面でのインセンティブに加え、外交的な圧力により、ベトナムなど戦略的に重要な国に対し、中国インフラへの依存を思いとどまらせようとしています。米国は、中国製海底ケーブルがスパイ活動や通信傍受のリスクをもたらすと警告しています。

日本の脆弱性と対応

2025年時点で、日本には世界各国との通信を支える国際海底ケーブルが25本陸揚げされています。しかし、そのうち中国やロシアなどの権威主義国に陸揚げされない国際海底ケーブルは10本のみです。

経済産業省は、2025年5月に再改訂された「経済安全保障に関する産業・技術基盤強化アクションプラン」で、海底ケーブルを含むいくつかの物資・技術を経済安全保障上重要な物資・技術として新たに追加しました。日本は、信頼できる国々とのケーブル網の多様化を急いでいます。

台湾海峡での緊張

2024〜2025年にかけて、台湾と周辺海域で海底ケーブルの損傷が異常な頻度で発生しています。中国側は「強化ケーブルを切断可能な装置を開発した」と公表し、国際社会に衝撃が走りました。

海底ケーブルの切断は、台湾を国際社会から孤立させる「静かな封鎖」の手段として機能する可能性があります。この脅威は、海底インフラの防護と強靭化の必要性を浮き彫りにしています。

深海資源開発の野望と環境保護の板挟み

深海底鉱物資源への期待

深海底には、レアアース、コバルト、ニッケルなど、電気自動車やスマートフォンに不可欠な鉱物資源が大量に存在します。国際海底機構(ISA)は、深海底の鉱物資源開発に関する規則の策定を進めています。

中国は深海底鉱物資源の探査で先行しており、複数の探査契約を保有しています。一方、欧米諸国も深海資源への関心を高めており、民間企業による探査活動が活発化しています。

環境保護との対立

深海底の鉱物資源開発は、未知の生態系に重大な影響を及ぼす可能性があります。環境保護団体は、深海底鉱業のモラトリアム(一時停止)を求めていますが、資源需要の高まりを背景に、開発推進派との対立が激化しています。

BBNJ協定は環境影響評価を義務付けていますが、深海底の鉱物資源開発については国際海底機構(ISA)の管轄であり、両者の調整が今後の課題となります。

日本の役割と課題

海洋国家としての責任

日本は世界第6位の排他的経済水域(EEZ)を持つ海洋国家であり、公海と深海底の保護に積極的に取り組む責任があります。BBNJ協定の批准は、その責任を果たす重要な一歩です。

日本は、科学的な海洋調査の実績と技術力を活かし、協定の実施において主導的な役割を果たすことが期待されています。

経済安全保障の視点

海底ケーブルや深海資源など、公海と深海底のインフラや資源は、日本の経済安全保障に直結します。中国やロシアへの過度な依存を避け、同盟国・友好国との協力を強化することが不可欠です。

総務省は、国際海底ケーブルの多ルート化によるデジタルインフラ強靭化事業を推進しており、2024年度から基金を設置して間接補助事業を実施しています。また、「国際海底ケーブルの防護等に関する検討会」を開催し、有事を想定したリスク分析と対策の検討を進めています。

国際協力の促進

日本は、途上国への能力構築支援や海洋技術移転において、積極的な役割を果たすべきです。これにより、BBNJ協定の普遍化と実効性の向上に貢献できます。

また、環境保護と資源開発のバランスを取る「日本モデル」を提示することで、国際的な議論をリードすることが期待されます。

展望と注意点

協定の実効性への懸念

BBNJ協定が発効しても、その実効性を担保するメカニズムは十分ではありません。海洋保護区の設定や環境影響評価の実施には、加盟国の政治的意思と資金が必要です。

特に、主要な海洋国であるロシアや中国が協定に消極的である限り、公海の包括的な保護は困難です。また、米国の関与が弱まれば、協定の実施に必要な資金や技術支援が不足する可能性があります。

大国間競争の激化

公海と深海底は、今後ますます大国間競争の舞台となるでしょう。海底ケーブル、深海資源、海洋遺伝資源をめぐる覇権争いは、環境保護の理想と現実政治の狭間で複雑化します。

特に、台湾海峡や南シナ海など、地政学的に重要な海域では、海底インフラの防護と環境保護が両立しない状況が生じる可能性があります。

科学技術の重要性

公海と深海底の保護には、科学的な知見が不可欠です。しかし、深海の生態系についてはまだ分かっていないことが多く、継続的な調査研究が必要です。

各国は、海洋調査能力と深海技術の強化に投資を続けるべきです。日本の深海探査船「ちきゅう」やJAMSTEC(海洋研究開発機構)の研究成果は、国際的な海洋保護に大きく貢献しています。

まとめ

2026年1月に発効するBBNJ協定は、公海と深海底の保護における歴史的な一歩です。しかし、理想的な海洋保護の枠組みである一方で、公海はすでに大国間の新たな競争の舞台となっています。

海底ケーブルは現代文明の命綱であり、その支配権をめぐる米中の競争は激化しています。深海資源は次世代技術に不可欠であり、その開発と環境保護のバランスが問われています。海洋遺伝資源は、先進国と途上国の利害対立の象徴です。

日本は海洋国家として、BBNJ協定の実施において主導的な役割を果たすべきです。同時に、経済安全保障の視点から、海底インフラの防護と多様化を急ぐ必要があります。

公海と深海底は、「人類の共通の財産」であると同時に、大国競争の最前線です。この矛盾をどう乗り越えるかが、21世紀の国際社会の大きな課題となるでしょう。

参考資料

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