Research

Research

by nicoxz

ミラノ五輪で深刻化するSNS中傷 選手保護と法的対策の最前線

by nicoxz
URLをコピーしました

はじめに

2026年2月に開催されたミラノ・コルティナ冬季オリンピックにおいて、日本選手団に対するSNS上の誹謗中傷が深刻な社会問題として浮上しました。JOC(日本オリンピック委員会)が大会期間中に確認した誹謗中傷の投稿は6万件を超え、「想定外の異常事態」と表現されるほどの規模に達しています。けがで棄権を余儀なくされた選手に対して「次は辞退してくださいね」という心ないメッセージが送られるなど、競技の結果だけでなく選手の人格そのものを攻撃する投稿が相次ぎました。本記事では、ミラノ五輪におけるSNS誹謗中傷の実態、JOCの対策体制、法的な観点からの分析、そして今後のスポーツ界に求められる対応について詳しく解説します。

ミラノ五輪で明らかになった誹謗中傷の実態

6万件超の衝撃的な数字

JOCは2026年2月13日に中間総括の会見を開き、大会開幕から約1週間の2月12日までに、日本選手団に関するSNS投稿のうち誹謗中傷にあたる投稿が6万2333件に上ることを明らかにしました。これは結団式が行われた1月18日からの監視対象期間における投稿総数24万5493件(ポジティブ・ネガティブ両方を含む)のうち、約4分の1に相当する驚くべき割合です。

JOCの伊藤秀央選手団長は「想定以上の件数を日々対応している」と述べ、現場の対応が追いつかない状況であることを認めました。大会最終日の2月22日に行われた総括会見では、大会期間全体で1919件の削除申請を行い、そのうち371件の削除が確認されたことが報告されています。

近藤心音選手が受けた深刻な中傷

誹謗中傷の深刻さを象徴する事例として、フリースタイルスキー女子スロープスタイルの近藤心音選手(22歳)のケースが大きな注目を集めました。近藤選手は2月5日の公式練習中に転倒し、救急車で搬送されました。診断結果は左膝前十字靱帯および内側側副靱帯の損傷、半月板の骨挫傷という重傷で、2月7日の予選を棄権せざるを得ませんでした。これは2022年の北京大会に続く2大会連続の棄権となります。

棄権後、近藤選手のSNSには「もし選ばれても次は辞退してくださいね」というメッセージが送られました。近藤選手は「人生で初めてのアンチです」と明かしたうえで、「何も知らない人がこんなに酷い事を」「今この状況にある私に対して言う言葉でしょうか」と怒りを露わにしました。この投稿に対し、フォロワーからは「流石に酷すぎ。本人が1番悔しい思いをしてるのに」「心無い言葉なんか気にしないで、次こそ絶対輝いてほしい」といった応援のメッセージが多数寄せられています。

海外選手も被害に

誹謗中傷の問題は日本選手に限りません。中国代表として出場したフリースタイルスキーのアイリーン・グー(谷愛凌)選手も、米国生まれでありながら中国代表を選んだことに対する激しいサイバーハラスメントに苦しんできたことを明かしています。グー選手はミラノ五輪で女子ハーフパイプの金メダルを含む3つのメダルを獲得しましたが、「この4年間は特に困難だった」と述べ、暴行や殺害の脅迫を受けたことも公表しました。「慣れたのではなく、強くなって耐えられるようになっただけ」「他の人が私と同じように攻撃されないよう守りたい」という言葉は、アスリートが置かれた過酷な状況を如実に物語っています。

JOCの誹謗中傷対策と課題

史上最大規模の監視体制

JOCはミラノ・コルティナ大会に向けて、過去最大規模の誹謗中傷対策体制を構築しました。ミラノ現地に6名、東京に16名のスタッフを配置し、弁護士も含めた専門チームが24時間体制でSNSおよびニュースサイトのコメント欄を監視しています。

この対策にはAI(人工知能)を活用した検知システムが導入されており、大量の投稿の中から不適切な内容を効率的に検出する仕組みが整えられました。また、大会開幕前にはLINEヤフーやMetaなどのプラットフォーム事業者との連携を強化し、迅速な削除申請が可能な体制を構築しています。

削除申請の壁

しかし、対策には大きな課題も浮き彫りになりました。大会中間時点(2月12日まで)で1055件の削除申請に対して実際に削除されたのは198件にとどまり、削除率はわずか約19%でした。大会全体では1919件の削除申請に対し371件の削除にとどまっています。

この低い削除率の背景には、プラットフォーム事業者の対応速度や、誹謗中傷の定義に関する判断基準の違いがあります。「批判」と「誹謗中傷」の境界線は必ずしも明確ではなく、プラットフォーム側が削除に慎重になるケースも少なくありません。JOCは「名誉毀損、侮辱、脅迫等の行き過ぎた投稿については、関係機関との調整の上、必要に応じて警察に相談、法的措置も含めて対応していく」と強調しており、より厳格な対応を進める方針です。

東京・パリ大会からの対策の進化

オリンピックにおけるSNS誹謗中傷対策は、大会を重ねるごとに強化されてきました。2021年の東京五輪では、卓球の水谷隼選手が金メダル獲得後にSNSで「死ね」「消えろ」といった暴言を受けるなど、対策の不十分さが指摘されました。当時のJOCの対応は後手に回り、選手個人が自力で対処せざるを得ない状況でした。

2024年のパリ五輪では、IOC(国際オリンピック委員会)がAIによる検知システムを導入し、37を超える言語で不適切な投稿を検知する体制を構築しました。大会期間中に8500件を超える中傷投稿が確認され、選手村内には「マインドゾーン」と呼ばれるメンタルヘルス相談スペースも設けられました。

ミラノ大会ではこれらの経験を踏まえ、JOCとして初めて大会期間中に現地と国内の2拠点で24時間対応する体制を構築しましたが、それでも「想定外」の件数に苦慮する結果となりました。

法的観点と今後の展望

「応援のつもり」でも罪になる可能性

弁護士の専門家による解説では、オリンピック選手に対するSNS上の書き込みについて、たとえ「応援のつもり」や「批評のつもり」であっても、内容によっては法的責任を問われる可能性があると指摘されています。

具体的には、名誉毀損罪(刑法230条、3年以下の懲役もしくは禁固または50万円以下の罰金)や侮辱罪(刑法231条、1年以下の懲役もしくは禁固もしくは30万円以下の罰金または拘留もしくは科料)が成立する可能性があります。特に2022年の侮辱罪厳罰化以降、SNS上の誹謗中傷に対する法的ハードルは下がっており、「次は辞退してくださいね」のような書き込みも、状況によっては侮辱罪に該当する可能性があります。

スポーツ界全体での取り組み

誹謗中傷対策はオリンピックに限らず、スポーツ界全体で進みつつあります。日本では複数の競技団体がSNS被害の相談窓口を設置し、選手が被害を報告しやすい環境づくりに取り組んでいます。また、IOCもパリ大会からの取り組みをさらに発展させ、プラットフォーム事業者との連携を強化する方針を示しています。

しかし、根本的な課題として、プラットフォーム上での匿名性の問題や、国境を越えた誹謗中傷に対する法的管轄の問題が残されています。技術的な対策だけでなく、ネットリテラシー教育やスポーツ観戦文化の醸成といった社会全体での取り組みが求められています。

アスリートのメンタルヘルス保護

誹謗中傷がアスリートのメンタルヘルスに与える影響も深刻です。近藤心音選手のように、身体的なけがに加えてSNS上の攻撃を受けることは、選手の精神的負担を大きく増加させます。今後は削除対応や法的措置に加え、選手のメンタルヘルスを支える心理的サポート体制の充実も不可欠です。

まとめ

ミラノ・コルティナ冬季五輪では、日本選手団に対するSNS誹謗中傷が6万件を超え、JOCが24時間体制で監視・削除申請を行うという前例のない対応を迫られました。1919件の削除申請に対し371件の削除確認にとどまった現実は、対策の難しさを浮き彫りにしています。けがで棄権した近藤心音選手への「次は辞退して」というメッセージに象徴されるように、匿名の言葉の暴力はアスリートの尊厳を深く傷つけます。法的措置の強化、プラットフォーム事業者との連携、そして何より私たち一人ひとりがSNSでの発信について考え直すことが、スポーツの未来を守る鍵となるでしょう。

参考資料

関連記事

最新ニュース