御手洗冨士夫の渡米とキヤノンのアメリカ進出戦略

by nicoxz

はじめに

1966年6月、30歳の御手洗冨士夫は太平洋を渡りました。叔父である御手洗毅社長から「米国に骨を埋めるつもりで行ってこい」と激励を受けての渡米は、キヤノンのアメリカ市場本格進出の転機となります。当時のキヤノンUSAの社員はわずか13人という小規模な組織でした。この決断が、その後のキヤノンのグローバル展開、そして御手洗冨士夫という経営者の形成に、どのような影響を与えたのでしょうか。本記事では、1960年代の日本企業の海外進出という時代背景の中で、御手洗の渡米とキヤノンのアメリカ戦略を詳しく解説します。

1960年代の日本企業とアメリカ市場

海外進出が「一大事」だった時代

1960年代の日本は、高度経済成長の真っただ中にありました。しかし、海外赴任は個人にとっても企業にとっても「一大事」でした。パスポートを社長が直々に手渡すという儀式が示すように、海外派遣は特別な意味を持っていました。

当時の日本企業による海外進出は、1960年頃から本格化し始めました。それまでの基幹産業中心から、食品や繊維、紙・パルプなど消費財部門での進出も目立ち始めた時期です。味の素は1960年にタイで現地生産を開始し、日精樹脂工業は1964年にロサンゼルス駐在所を開設するなど、中堅企業も積極的に海外展開を進めていました。

アメリカ市場の重要性

アメリカは世界最大の消費市場であり、日本企業にとって最も重要な海外市場でした。しかし、戦後の「安かろう、悪かろう」という日本製品への評判を払拭する必要がありました。キヤノンも当初は慎重で、「快心の作」が完成するまで対米輸出を自重していたほどです。

転機となったのは、進駐軍がキヤノン製カメラを購入し、その品質の良さが口コミで広まったことでした。サンフランシスコで開催された全米カメラ展示会でキヤノンII B型が1等賞を受賞したことも、アメリカ市場での評判向上に大きく貢献しました。

キヤノンのグローバル戦略と御手洗毅の経営理念

創業者・御手洗毅のビジョン

御手洗冨士夫の叔父である御手洗毅は、1933年にキヤノンの前身である精機光学研究所に参画し、後に社長となった創業者の一人です。医師から経営者に転身した異色の人物でしたが、明確なビジョンを持っていました。

「キヤノンはライカに追いつけ追い越せ。世界一が念願だ」という強い信念のもと、目先の利益よりも品質と自社ブランドの確立を優先しました。海外指向も強く、「輸出するには漢字よりカタカナが良い」と考え、社名を「キヤノンカメラ」に変更し、ソニーより前に製品商標に「CANON」を採用していました。

1967年の多角化宣言

1967年、御手洗毅は「右手にカメラ、左手に事務機」というスローガンを掲げ、キヤノンの多角経営を宣言しました。この戦略は、光学技術を核に事務機分野へと事業を拡大するもので、1962年の第1次5カ年計画で始まった事務機分野への進出が本格化した時期と重なります。

この多角化戦略は、後にキヤノンを世界的な総合精密機器メーカーへと成長させる基盤となりました。

御手洗冨士夫の23年間のアメリカ駐在

キヤノンUSAでのキャリア

1966年に渡米した御手洗冨士夫は、23年間という長期にわたりアメリカに駐在しました。キヤノンUSAは1955年にニューヨークに代表事務所として開設され、1966年に正式にCanon U.S.A., Inc.として法人化されました。御手洗が渡米したのは、まさにこの法人化のタイミングでした。

当初の社員数は13人という小規模な組織でしたが、御手洗は後半の10年間を現地法人の社長として過ごし、キヤノンのアメリカ市場での地位確立に大きく貢献しました。

アメリカ仕込みの合理的経営

23年間のアメリカ駐在経験は、御手洗の経営スタイルに大きな影響を与えました。後にキヤノンの社長・会長となった際には、「アメリカ仕込みの合理的経営」をキヤノンに持ち込んだと評されています。

1961年に中央大学法学部を卒業してキヤノンに入社した御手洗は、レンズ工場での生産(1年半)、経理(2年)、カメラの国内営業(2年)という多様な業務経験を経て渡米しました。この国内での経験と、アメリカでの23年間が、後の経営者としての基盤を形成したのです。

キヤノンのグローバル展開の成果

海外売上比率の拡大

キヤノンのグローバル化は着実に進展しました。1950年代から積極的に世界市場に目を向け、事業を展開した結果、1960年代には40%だった連結売上高の海外比率が、現在では80%以上にまで拡大しています。連結ベースで79%が海外での売上という状況は、キヤノンが真にグローバル企業へと成長したことを示しています。

御手洗冨士夫の経営者としての成長

御手洗冨士夫は、アメリカ駐在から帰国後、キヤノンの経営陣として活躍しました。創業者一族の出身でありながら、現場経験と海外駐在経験を積んだことで、実践的な経営能力を身につけました。

2022年には3度目の社長就任という異例の事態もありましたが、これはキヤノンという企業における御手洗の存在の大きさを示しています。

注意点と今後の展望

創業者一族の経営と後継者育成

御手洗冨士夫の3度目の社長復帰は、「次のなり手がいない」という後継者問題を浮き彫りにしました。グローバル企業としての成長を遂げたキヤノンにとって、創業者一族に頼らない経営体制の構築が課題となっています。

グローバル化の教訓

御手洗冨士夫の経験は、グローバル化において現地での長期経験が重要であることを示しています。わずか数年の駐在では得られない、23年間という長期駐在だからこそ得られた経営ノウハウが、キヤノンの成長を支えました。

現代の企業にとっても、短期的な成果を求めるだけでなく、長期的な視点で人材を育成し、現地市場を深く理解することの重要性を、この事例は教えてくれます。

まとめ

1966年の御手洗冨士夫の渡米は、個人のキャリアという観点だけでなく、キヤノンのグローバル戦略という観点からも重要な転機でした。創業者・御手洗毅の「世界一」を目指すビジョン、1960年代という日本企業の海外進出が本格化した時代背景、そして23年間という長期駐在経験が組み合わさり、キヤノンのアメリカ市場での成功と、御手洗冨士夫という経営者の形成につながりました。

現在、キヤノンは連結売上高の約80%を海外で稼ぐグローバル企業へと成長しています。その基盤を築いた1960年代のアメリカ進出と、30歳の若き御手洗冨士夫の挑戦は、日本企業のグローバル化の歴史において、重要な一章として記憶されるべきでしょう。

参考資料:

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