渋沢敬三の知られざる顔、民俗学パイオニアの功績
はじめに
「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一の孫として知られる渋沢敬三(1896年〜1963年)。第16代日本銀行総裁、第49代大蔵大臣として戦後の経済再建に尽力した人物ですが、もう一つの顔があります。日本の民俗学研究のパイオニアとしての功績です。
庶民の生活用具を「民具」と名付け、自邸の屋根裏に博物館を開設し、若き研究者たちを支援しました。金融の頂点に立ちながら、庶民の暮らしの記録に情熱を注いだ渋沢敬三。その知られざる文化人としての姿に迫ります。
渋沢敬三の二つの顔
経済人としての経歴
渋沢敬三は1896年、東京に生まれました。祖父・渋沢栄一が築いた渋沢子爵家の当主として、1921年に大学卒業後、横浜正金銀行に入行します。その後、第一銀行取締役、副頭取などを歴任し、1942年に日本銀行副総裁、1944年に第16代総裁に就任しました。
終戦直後の1945年、姻戚の幣原喜重郎首相に請われて大蔵大臣に就任します。約半年の在任中に預金封鎖、新円切り替え、高税率の財産税の臨時徴収といった極めて困難な政策を実施し、戦後の猛烈なインフレーションと膨大な国家債務の処理に当たりました。
民俗学者としての活動
しかし敬三の本来の志は学問にありました。もともと動物学者を志望していた敬三は、祖父の意向で財界に入りましたが、学問への情熱を失うことはありませんでした。政財界での活動のかたわら、庶民の暮らしの記録と研究に生涯を捧げたのです。
アチック・ミューゼアム:屋根裏の博物館
創設の経緯
敬三が学問の拠点として創設したのが「アチック・ミューゼアム」です。「アチック(attic)」は英語で「屋根裏部屋」を意味します。二高時代の同級生らと語らい、東京・三田綱町の渋沢邸にある物置小屋の屋根裏部屋に動植物の標本や化石を集め、整理・研究を行う「アチックミューゼアムソサエティ」を1921年に立ち上げました。
一時はロンドン赴任で中断しましたが、帰国後の1925年に活動を再開。名称を「アチック・ミューゼアム」と改め、郷土玩具の研究を開始しました。やがて活動の中心は民具や漁民資料の収集・研究へと発展していきます。
若き研究者の集う場
アチック・ミューゼアムは単なるコレクションの場ではありませんでした。志を同じくする若い研究者たちが集い、共同で調査・研究を行う学術コミュニティとしての機能を果たしていたのです。
敬三は「論文を書くのではない。資料を学界に提供するのである」と述べ、資料の収集と保存を通じた学問への貢献を重視しました。研究者たちは人々の暮らしを明らかにするために民具や漁民資料などを収集し、地域の総合的な調査・研究を展開していきました。
「民具」の命名者
庶民の生活用具への着目
渋沢敬三の民俗学における最大の功績の一つが、庶民の生活用具を「民具」と名付けたことです。当時、農具や漁具、日用品といった庶民の道具類は、学術的な研究対象としてほとんど注目されていませんでした。
敬三はこれらの道具に学術的価値を見出し、「民具」という概念を確立しました。物質文化の社会経済史的把握に重点を置いたこのアプローチは、日本の民俗学に新たな研究領域を切り開くものでした。
足半(あしなか)への情熱
敬三の民具研究への情熱を象徴するのが「足半(あしなか)」の収集です。足半とは、かかと部分のない短い草履で、通常の草履の半分ほどの長さしかありません。鎌倉時代から使われていた記録があり、武士から農山漁村の庶民まで、力仕事や走る際に愛用されていました。
敬三は各地から膨大な数の足半を集め、旅芸人にも依頼して全国から収集を進めました。写真撮影はもちろん、レントゲンを使って内部構造まで分析するという徹底ぶりでした。300点以上を蒐集し、測定、内部構造、鼻緒の詳細、技法、使用法や目的などを体系的に研究しています。
文化的遺産の継承
日本常民文化研究所へ
アチック・ミューゼアムは戦時下に「日本常民文化研究所」へと改称されました。「常民」とは一般の庶民を指す言葉で、敬三が庶民の文化を研究対象として確立しようとした志が名称に表れています。
1982年にこの研究所は神奈川大学に招致され、現在も「神奈川大学日本常民文化研究所」として活動を続けています。2021年には創立100周年を迎え、敬三が蒔いた種は一世紀を経て今なお実りをもたらしています。
国立機関の設立への貢献
敬三の文化的貢献は、自身の研究活動にとどまりません。文部省史料館(現・国文学研究資料館)や国立民族学博物館の設立を提唱し、膨大な資料を寄贈して、その基礎を築きました。現在の日本における文化財の保存・研究体制は、敬三の先見性と惜しみない支援なくしては語れないものです。
注意点・現代への示唆
二刀流の意義
渋沢敬三の生涯が現代に示唆するのは、専門分野を超えた知的活動の価値です。金融界のトップとして多忙を極めながらも、学問への情熱を失わなかった敬三の姿勢は、現代のビジネスパーソンにとっても示唆に富んでいます。
経済活動と文化活動は対立するものではなく、むしろ互いに豊かにし合うものだという敬三の信念は、今日のESG経営や文化的投資の議論にも通じるものがあります。
失われゆく庶民文化の記録
敬三が100年前に始めた民具の収集と研究は、今日さらに重要性を増しています。急速な近代化とグローバル化の中で、各地の伝統的な生活用具や技術は失われ続けています。敬三が「論文を書くのではない。資料を学界に提供するのである」と述べた精神は、文化遺産のデジタルアーカイブが進む現代においても変わらぬ価値を持っています。
まとめ
渋沢敬三は、日銀総裁・大蔵大臣として日本経済の危機を乗り越えた経済人であると同時に、日本の民俗学に大きな足跡を残した文化人でした。「民具」という概念の確立、アチック・ミューゼアムの創設、若い研究者への支援、国立機関の設立への貢献など、その功績は多岐にわたります。
祖父・渋沢栄一が「日本資本主義の父」なら、敬三は「日本民具学の父」と呼べる存在です。経済と文化の両立を体現したその生涯は、現代社会にも多くの教訓を与えてくれます。
参考資料:
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