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by nicoxz

渋沢敬三が切り開いた日本民俗学の世界

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はじめに

「日本資本主義の父」渋沢栄一の孫として生まれ、日本銀行総裁、大蔵大臣という日本経済の頂点に立った人物が、同時に日本の民俗学研究のパイオニアでもあった。渋沢敬三(1896〜1963年)は、そんな稀有な人生を歩んだ人物です。

庶民の生活用具を「民具(みんぐ)」と名付けたのも渋沢敬三です。自宅に研究所を設立し、若い研究者を支援しながら、自らも全国各地から資料を収集し続けました。その功績は、現在の国立民族学博物館(大阪)の基礎コレクションにつながっています。

この記事では、渋沢敬三の生涯と民俗学への貢献を振り返り、「経済と文化の架け橋」となった人物像に迫ります。

渋沢敬三の生涯

動物学者の夢と祖父の期待

渋沢敬三は1896年(明治29年)、渋沢栄一の長男・篤二の長男として東京に生まれました。父の篤二は女性問題で1913年に廃嫡されており、敬三は幼少期から祖父・栄一の後継者として期待を背負うことになります。

敬三自身は動物学者を志していました。東京帝国大学経済学部に在学しながらも、理学部動物学科の講義に出席するほどの熱心さでした。しかし祖父の強い要請を受け、実業家への道を歩む決意をします。この「自然科学への情熱」と「経済人としての責務」の二面性が、後の民俗学への取り組みの原動力となります。

金融界の頂点へ

1921年に大学を卒業後、横浜正金銀行に入行し、ロンドン支店での勤務を経験しました。その後、祖父ゆかりの第一銀行取締役、澁澤倉庫取締役に就任し、第一銀行副頭取を経て、1942年に日本銀行副総裁、1944年には第16代日銀総裁に就任しました。

終戦直後の1945年10月には、姻戚の幣原喜重郎首相に請われて大蔵大臣に就任しました。約半年間の在任中に、預金封鎖、新円切り替え、高税率の財産税の臨時徴収といった厳しい措置を実行し、戦後のインフレ対策と膨大な国家債務の整理に当たりました。

戦後の活躍

戦後は国際電信電話会社(現KDDI)の初代社長、文化放送会長、日本航空相談役など、多くの要職を歴任しました。また、IOC国内委員会議長として、日本のスポーツ振興にも貢献しています。

アチック・ミューゼアムと民具研究

屋根裏部屋から始まった博物館

渋沢敬三の民俗学への取り組みの象徴が、1921年に自宅の屋根裏部屋(アチック)に設立した「アチック・ミューゼアム・ソサエティ」です。東京・三田にあった祖父・栄一が建てた邸宅内の蔵の屋根裏を利用し、当初は動植物の標本や化石、郷土玩具を収集していました。

1925年に「アチック・ミューゼアム」と改称された後、収集の範囲は郷土玩具から生活用具全般へと広がりました。渋沢はこれらの庶民の日用品を「民具(みんぐ)」と名付けました。この命名は、日本の民俗学における重要な概念の確立を意味しています。

「足半」への情熱

渋沢敬三の資料収集の姿勢を象徴するのが、「足半(あしなか)」の研究です。足半とは、かかと部分のない短い草履のことで、旅芸人や農民が日常的に使用していた履物です。

渋沢は全国各地から300点以上の足半を収集しました。旅芸人にも依頼して各地の足半を集め、写真に記録し、レントゲンで内部構造を調べるという徹底ぶりでした。寸法、鼻緒の形状、編み方の技法、用途、地域差など、多角的な分析を行っています。

一つの日用品にここまで科学的なアプローチで迫ったことは、民俗学の方法論に大きな影響を与えました。庶民の生活に根ざした道具には、その地域の気候、産業、文化が凝縮されているという認識が、渋沢の民具研究の根幹にあります。

若い研究者の育成

渋沢敬三の功績は、自らの研究だけにとどまりません。アチック・ミューゼアムを拠点に、多くの若い研究者を育成し、調査資金を提供し続けました。民俗学、民族学、霊長類学、考古学など、幅広い分野の研究者に門戸を開きました。

渋沢は「学問の進歩は、研究者に豊かな環境を提供することにかかっている」と信じ、自らの財を投じて研究基盤を支えました。現在の「パトロン」や「メセナ」に通じる活動を、戦前から一貫して行っていたのです。

民俗学への持続的影響

常民文化研究所の設立

アチック・ミューゼアムは後に「日本常民文化研究所」と改称され、現在は神奈川大学に附置されて活動を続けています。2021年には設立100周年を迎え、渋沢が蒔いた種が現在も実を結んでいます。

「常民(じょうみん)」とは、歴史に名を残さない一般の人々のことです。権力者や英雄ではなく、日々の暮らしを営む庶民の文化に光を当てる。この視点は渋沢敬三の研究姿勢そのものであり、日本の民俗学の基本的な方向性を定めたものと評価されています。

国立民族学博物館への遺産

渋沢敬三の死後、アチック・ミューゼアムに収蔵されていた膨大な民族学資料は、1977年に大阪・万博記念公園に開館した国立民族学博物館の基礎コレクションとなりました。一個人の情熱から始まった収集が、国の文化財として永久に保存されることになったのです。

九学会連合の創設

1947年には、人文科学系の9つの学会に呼びかけて「九学会連合」を設立しました。民俗学、民族学、社会学、人類学など、異なる専門分野の研究者が共同で調査・研究を行う場を作ったのです。分野横断的な研究の重要性を早くから認識していた渋沢の先見性が表れています。

注意点・展望

「二足のわらじ」が持つ今日的意義

渋沢敬三の生き方は、「経済と文化は対立するものではない」ということを体現しています。日銀総裁という金融界の頂点に立ちながら、足半の内部構造をレントゲンで調べるような地道な研究を続けた。この「二足のわらじ」は、現代のビジネスパーソンにとっても示唆に富むものです。

企業のメセナ活動やCSR(企業の社会的責任)が注目される現在、渋沢のように個人の情熱と社会的立場を結びつけて文化を支えるモデルは、改めて見直される価値があります。

民具研究の現代的価値

渋沢が体系化した民具の概念は、今日のデザイン研究や文化人類学にも影響を与えています。地域に根ざした生活道具を丁寧に記録し分析する手法は、無形文化遺産の保存や地域創生の取り組みにも応用されています。

まとめ

渋沢敬三は、渋沢栄一の孫として生まれ、日銀総裁・大蔵大臣を歴任した経済人であると同時に、「民具」の概念を確立し、アチック・ミューゼアムを通じて日本の民俗学を支えたパイオニアです。

全国から300点以上の足半を集め、レントゲンで内部構造を調べた情熱。若い研究者に惜しみなく支援の手を差し伸べた姿勢。経済と文化の両方に深くコミットした渋沢敬三の生き方は、時代を超えて多くの示唆を与えてくれます。

参考資料:

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