信託型SO訴訟で問う給与課税の妥当性とスタートアップへの余波
はじめに
信託型ストックオプションを巡る税務論争が、ついに司法判断の段階に入りました。株式会社Speeeは2026年3月17日、国に対して源泉所得税等の還付を求める訴訟を提起したと開示しています。争われるのは単なる税額ではありません。ストックオプションの「行使益」を給与所得とみる国税庁の整理が、法解釈として妥当なのか、そして企業に源泉徴収義務まで課せるのかという、制度の根幹です。
この問題は2023年春に一気に表面化しましたが、2026年になっても尾を引いています。理由は、税務処理の変更がスタートアップの資本政策、人材報酬、IPO準備、会計処理に一斉に波及したからです。本記事では、Speee訴訟の中身を起点に、信託型ストックオプションの仕組み、国税庁見解のポイント、争点の本質、そして今後の実務への影響を整理します。
Speee訴訟が持ち込んだ争点
2026年3月17日に何が起きたのか
Speeeの2026年3月17日付の適時開示によれば、同社は信託型ストックオプションに関して既に行っていた源泉所得税の納付などの対応について、司法判断を求めるため国を被告として還付訴訟を起こしました。開示文書では、国税庁が示した「行使時点で給与所得課税となり、会社に源泉徴収義務が生じる」という見解に対し、同社は法令解釈として妥当ではなく、自社に源泉徴収義務は生じないと考えていると説明しています。
ここで重要なのは、Speeeが制度への不満を表明しているのではなく、既に納付した税金について「誤納金」に当たるとして返還を求めている点です。つまり論点は、将来の制度設計だけではなく、過去の納税がそもそも法的根拠を欠いていたのではないかというところまで踏み込んでいます。税務訴訟としてはかなり重い争い方です。
この種の事件で裁判所が見るのは、税法の文言、従来の通達や実務の蓄積、当該スキームの実質、そして源泉徴収義務の成立要件です。Speee訴訟は、その全部をまとめて問うケースになる可能性があります。スタートアップ界隈での関心が高いのは当然で、勝敗次第では個別企業の納税負担だけでなく、税務行政の説明責任のあり方にも影響します。
会社と国税庁の見方のズレ
国税庁は、信託型ストックオプションでも実質的には会社が役職員に報酬として付与しているとみれば、権利行使時の経済的利益は給与所得になるという立場です。2023年7月最終改訂版のQ&Aでも、非適格の信託型ストックオプションについては、行使時に給与課税が生じ、会社は源泉所得税を徴収して納付する必要があるという整理を示しました。
これに対し企業側や一部専門家は、信託が適正な時価で新株予約権を取得し、受益者指定時点でも直ちに所得認識が生じないという法人課税信託の仕組みを前提に、従来は株式売却時の譲渡所得課税として理解してきました。鳥飼総合法律事務所の解説も、2023年2月20日の国会答弁が「これまでの一般的な理解を覆す見解」だったと位置づけています。つまり今回の訴訟は、企業側の単なる願望ではなく、実務上広く共有されていた認識と国税庁見解が正面衝突した結果でもあります。
そもそも信託型ストックオプションとは何か
普通のストックオプションとの違い
信託型ストックオプションの最大の特徴は、付与対象者と配分数を後で決められることです。通常のストックオプションは発行時点で誰に何個渡すかを決める必要がありますが、信託型ではまず受託者が新株予約権を保有し、会社は後から貢献度や採用状況に応じて受益者を指定できます。
鳥飼総合法律事務所の2023年2月解説によると、これはオーナー経営者らの拠出資金で組成した法人課税信託の受託者が、新株予約権を時価で取得し、その後に受益者となった役職員へ交付するスキームです。STARTUP DBも、発行後に採用した人材に同条件で付与しやすいことや、実績に応じた配分ができることが、スタートアップに広がった理由だと説明しています。
成長企業にとってこれは非常に魅力的でした。採用時点では価値が見えない人材に後から厚く配れますし、IPO前の限られた現金を使わずにインセンティブを設計できます。特に未上場企業では、株価上昇後に入社した人へ既存メンバーと同じ強さの報酬設計をするのが難しいため、信託型は「配分の柔軟性」を補う道具として機能していました。
税務メリットが広がりを後押しした背景
この仕組みが急速に普及した背景には、税務上の期待もありました。従来の一般的理解では、信託型ストックオプションは権利行使時ではなく、行使後に取得した株式を売却した時点で譲渡所得課税になるとみられていました。STARTUP DBやAGSコンサルティングは、2023年当時の実務感覚として、売却時の分離課税を前提に制度設計していた企業が多かったと説明しています。
ここで差が出るのは税率だけではありません。給与所得課税になると、株式を売却して現金化する前でも、行使時点の評価額に基づいて税負担が発生し得ます。未上場株やロックアップ中の株式では、資産はあるが現金はないという状態で納税が必要になることがあります。スタートアップでこの負担が重く見られたのは当然です。
2023年Q&Aで何が変わったのか
国税庁が明確にした非適格信託型の扱い
国税庁は2023年5月に「ストックオプションに対する課税(Q&A)」を公表し、7月7日に最終改訂版を出しました。Q&Aの問3では、信託会社を通じた税制非適格の信託型ストックオプションについて、権利行使時の経済的利益は給与所得として扱う方向を明確化しました。問3の事例では、信託が時価50で取得した新株予約権について、行使時株価800、行使価額200といった前提を置きつつ、行使時の利益に給与課税が及ぶ構成が示されています。
加えて国税庁のタックスアンサーNo.1543でも、雇用関係に基因して与えられた税制非適格ストックオプションの経済的利益は、権利行使時に給与所得として課税されると整理されています。これは信託型だけを特別扱いしたというより、国税庁が「信託を介しても実質は勤務先からの報酬だ」とみて通常の非適格SOの枠に乗せた、と理解するのが近いでしょう。
企業側に衝撃が走ったのは、この整理が過去分にも影響し得ると受け止められたからです。STARTUP DBは2023年5月29日の説明会について、国税庁担当者が「従来から給与所得課税と考えている」と説明し、既に株式を取得したケースでは源泉所得税の納付が必要だと案内したと報じています。企業から見れば、新ルール制定ではなく「元からそうだった」と説明されたことが、法的安定性への不信を一層強めました。
同年7月に生まれた税制適格の逃げ道
もっとも、2023年は締め付け一辺倒では終わりませんでした。最終改訂版Q&Aの問12では、一定の要件を満たす信託型ストックオプションについて税制適格として認める道が示されました。経済産業省の説明するストックオプション税制は、権利行使時の給与所得課税を株式売却時まで繰り延べ、売却時に譲渡所得として課税する仕組みです。コタエル信託も、7月7日の改訂で信託にプールされた新株予約権を税制適格として交付できることが明確になったと説明しています。
つまり政府は、過去の非適格信託型には厳しい見方を維持しつつ、将来については税制適格の新ルートを整備する方向へ舵を切りました。OBCの解説でも、その後は株式保管委託要件の撤廃や権利行使限度額の引き上げなど、税制適格SOの使い勝手を高める方向が示されています。言い換えれば、政策側は「古いスキームは認めにくいが、代替制度は用意する」という整理に向かったわけです。
裁判で問われる本当のポイント
Q&Aはどこまで拘束力を持つのか
今回の訴訟で実務家が注目する第一の論点は、国税庁Q&Aの位置づけです。Q&A自体は、PDF冒頭で「一般的な取扱い」を示したものであり、「個々の事実関係によっては異なる取扱いとなる場合がある」と明記しています。ここは見落としにくい重要ポイントです。行政文書としての説明と、個別事件における法的拘束力は同じではありません。
Speee側の主張は、まさにこの余地にかかっているとみられます。信託の組成方法、受益者指定の時点、役職員の負担の有無、権利行使の条件など、事実関係の違いによっては、Q&Aの事例設定をそのまま当てはめられない可能性があるからです。裁判所がQ&Aの一般論をどこまで個別事案に引き直すかは、今後の同種案件にも波及します。
問われるのは税率ではなく法的安定性
一般には「20%か55%か」の税率差が注目されがちです。もちろん実務上のインパクトは大きいのですが、争点の本質はそこだけではありません。より重いのは、企業が長年の実務理解に基づいて設計した報酬制度について、後から別解釈が提示されたとき、どこまで遡って源泉徴収義務を負うのかという法的安定性の問題です。
鳥飼総合法律事務所の2023年8月論文も、国税庁の見解や税制適格の要件整理には妥当性への疑問が残ると指摘しています。反対に、国税庁側から見れば、租税法令上もともと非適格の報酬性利益であり、誤った理解が広がっていただけだという立て付けになります。この対立は、税務行政が事後的に実務を修正する際の説明責任そのものを問うテーマでもあります。
注意点・展望
この問題でよくある誤解は、「2023年7月の改訂で全部解決した」という見方です。実際にはそうではありません。問12で税制適格の道が開かれたのは将来案件の整理であって、過去に組成・行使された非適格信託型の処理問題は残りました。Speee訴訟が今になって起きているのは、その未解決部分が司法の場に移ったからです。
もう一つの誤解は、「信託型SOそのものが使えなくなった」という理解です。現在は税制適格の信託型という選択肢も整備されており、制度自体が消えたわけではありません。むしろ今後は、税制適格要件を満たすか、非適格なら初めから給与課税前提で設計するかを、導入時点で明確に分ける実務へ移っていく可能性が高いです。
見通しとしては、東京地裁での判断がまず重要な分岐点になります。企業側が勝てば、過去に対応済みの企業でも還付請求や見直しの動きが広がる可能性があります。国側が勝てば、信託型SOの過去案件はほぼ整理が固まり、今後は税制適格SOへの移行が一段と進むでしょう。いずれにせよ、裁判の帰結はスタートアップの報酬設計に直結します。
まとめ
Speeeが起こした還付訴訟は、信託型ストックオプションを巡る混乱の最終局面に近い意味を持っています。問われるのは、行使益が給与所得か譲渡所得かという分類だけではなく、国税庁Q&Aの射程、会社の源泉徴収義務、そして税務実務の法的安定性です。
2023年の見解公表以後、政府は税制適格の新ルートを整え、将来制度はある程度整理しました。しかし過去案件の傷はまだ癒えていません。信託型SOを巡る本当の論点は「節税の是非」ではなく、成長企業の報酬制度をどこまで予見可能に設計できるかにあります。東京地裁の判断は、その予見可能性の線引きを示す試金石になるはずです。
参考資料:
- 信託型ストックオプションに関する訴訟の提起のお知らせ | 有報キャッチャー
- 信託型ストックオプションに関する訴訟の提起のお知らせ | みんかぶ
- ストックオプションに対する課税(Q&A)最終改訂版 | 国税庁
- No.1543 税制非適格ストック・オプションに係る課税関係について | 国税庁
- No.1540 ストック・オプション税制の適用を受けて取得した株式を譲渡した場合 | 国税庁
- ストックオプション税制 | 経済産業省
- 信託型ストックオプションを取り巻く状況、懸念と今後の展開 | OBC
- 信託型ストックオプションの動向について | AGSコンサルティング
- 信託型ストックオプションは「給与所得課税」国税庁が見解示す | STARTUP DB Media
- 信託型ストックオプションの税務上の取扱い | 鳥飼総合法律事務所
- 信託型ストックオプションに関する国税庁の見解に対する疑問点 | 鳥飼総合法律事務所
- 税制適格ストックオプション(信託型)の誕生 | コタエル信託
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