第一三共が3000億円投資でADC抗がん剤増産へ世界展開
はじめに
第一三共が抗がん剤事業で大胆な世界展開に踏み切ります。同社は日本、米国、ドイツ、中国の4カ国に総額約3000億円を投じ、「抗体薬物複合体(ADC)」と呼ばれる先進的な技術を使う医薬品の製造工場などを新設すると発表しました。この投資は、販売好調な主力抗がん剤「エンハーツ」を含むADC薬の需要が予想を大きく上回って拡大していることに対応するものです。同時に、関税などの地政学的リスクを回避し、安定供給体制を構築する狙いもあります。本記事では、ADC技術の革新性、第一三共の成長戦略、そして世界の抗がん剤市場における同社の立ち位置について詳しく解説します。
ADC(抗体薬物複合体)技術とは
ADCの基本構造と仕組み
ADC(Antibody Drug Conjugate:抗体薬物複合体)は、がん治療に革命をもたらすと期待される次世代の抗がん剤です。その構造は、抗体・抗がん剤・リンカーの3要素で構成されています。抗体部分ががん細胞表面の特定の分子を認識して結合し、抗がん剤部分ががん細胞を攻撃します。リンカーは抗体と抗がん剤を血液中で安定的に複合させる役割を果たします。
従来の抗がん剤は、がん細胞だけでなく正常な細胞にも作用してしまうため、深刻な副作用が問題となっていました。ADCは、がん組織の分子と抗体が結合してがん細胞を「狙い撃ち」できるため、副作用を抑えながら高い治療効果が期待できます。いわば、抗体が「ミサイルの誘導装置」、抗がん剤が「弾頭」、リンカーが「両者を結ぶ連結部分」という関係です。
第一三共のDXd ADC技術
第一三共が確立した「DXd ADC技術」は、従来よりも有効性の高い抗体薬物複合体の創製を可能にした独自技術です。最大の特徴は、最大8個のペイロード(薬物)を安定して結合できる薬物リンカーの開発に成功したことです。これにより、一つのADC分子が多くの薬物を運搬できるようになり、治療効果が向上しました。
ADC製造技術の進化
第一世代のADC技術は、抗体中のシステインまたはリジン残基に非選択的に薬物を結合させる方法を使用していたため、不均質な混合物となるという課題がありました。これに対し、次世代技術では、非天然アミノ酸を部位特異的に組み込むことで、制御された安定した結合部位が生成されるようになりました。その結果、薬物が抗体に正確に結合し、抗体と薬物の比率が制御された均質なADCを製造することが可能になっています。
リンカー技術も進化しており、ジスルフィド、ヒドラゾン、ペプチド(開裂型)、チオエーテル(非開裂型)などの化学構造が採用されています。これらの技術革新により、ADCは単なる研究段階から実用段階へと大きく進歩しました。
第一三共の投資計画と戦略
3000億円の内訳と各国の役割
第一三共は日本、米国、ドイツ、中国の4カ国に総額約3000億円を投じてADC製造体制を強化します。この投資はADC薬のピーク時の需要見通しが「当初予想の約1.5倍に上振れる」と見込んでいることが背景にあります。
ドイツについては、2024年11月21日にバイエルン州のプファフェンホーフェンにおいて、がん治療薬用ADCの製造施設の起工式を行いました。本計画の枠組みの中で、プファフェンホーフェン拠点に約10億ユーロを投資するとしています。
米国については、第一三共が米国工場に3億5000万ドル(約530億円)を追加投資することが明らかになっています。
日本と中国についても工場新設が計画されており、グローバルな供給網の構築が進められています。
地政学リスクへの対応
この大規模投資には、地政学的リスクを回避する狙いもあります。近年、米中対立の激化や各国の保護主義的な政策により、医薬品の国際流通にも影響が出始めています。主要市場である米国や中国で現地生産体制を構築することで、関税の影響を回避し、安定的な供給を確保できます。
また、新型コロナウイルスのパンデミックで明らかになったように、グローバルサプライチェーンの脆弱性は企業経営における重大なリスクです。複数の拠点で製造能力を持つことで、一つの地域で問題が発生しても他の拠点でカバーできる柔軟性が生まれます。
エンハーツの驚異的な成長
第一三共の投資を後押しするのが、主力抗がん剤「エンハーツ」の驚異的な売上成長です。エンハーツは2019年に初承認を取得した後、急速に売り上げを伸ばしてきました。
2024年度(2024年3月期)実績では、エンハーツの売上は4,638億円で、前年比+38.6%(現地通貨ベース+31.4%)を記録しました。欧米とも乳がん一次治療での採用が進み、「定番薬」として地位を確立しています。
2025年度(2025年3月期)の予想では、エンハーツの売上は36%増の6,118億円と予測されており、264億円上方修正されました。第一三共全体の2025年3月期業績は、売上収益1兆8,862億円(前期比+17.8%)、営業利益3,319億円(+56.9%)、当期純利益2,958億円(+47.3%)という好成績となり、5期連続で過去最高を更新しました。
エンハーツは乳がん、胃がん、非小細胞肺がんなど複数の適応で市場シェアナンバー1を達成しており、第一三共の成長を牽引する主力製品として確固たる地位を築いています。
世界のADC市場と第一三共の戦略
急成長するADC市場
世界のADC医薬品市場は急速に拡大しています。複数の市場調査レポートによると、抗体薬物複合体の世界市場規模は2022年に50億3,280万米ドルに達し、2030年には165億9,460万米ドルに達すると予測されています。予測期間中(2023年〜2030年)の年平均成長率(CAGR)は16.6%という高い水準です。
別の調査では、ADC市場は2023年に56億米ドルと評価され、CAGR 16.12%で成長し、2030年には159億6,000万米ドルに達すると予測されています。さらに保守的な予測でも、2030年までに232億米ドルに達する見込みとされています。最も楽観的な予測では、2031年には296億9,000万米ドルに達するとする調査もあります。
この市場成長を牽引する要因として、がんの有病率の増加、がんに関する研究開発への投資の増加、がんに対する革新的な標的治療法の増加、抗体工学および複合化技術の進歩などが挙げられています。
第一三共の2030年ビジョン
第一三共は米メルクとADC技術を使った抗がん剤の共同開発を進めており、エンハーツやメルクとの共同開発品を含めて5つのADC技術を使った抗がん剤を2030年までに実用化し、胃がんや卵巣がんなど30以上の適応症で承認を取得することを目指しています。
さらに、第一三共はがん領域で世界トップ10入りという目標を掲げています。眞鍋淳会長兼CEOは「エンハーツを含め予想以上の成長を遂げている」と述べており、「どこまで上を目指せるか」という野心的な姿勢を示しています。
他社との競争環境
ADC市場の成長性を背景に、製薬大手がこぞって参戦しています。アストラゼネカは第一三共とエンハーツの共同販売契約を結んでおり、2019年に最大69億ドル(約7,500億円)というメガディールを締結しました。
また、第一三共はメルクとも2023年に最大220億ドル(約3兆円)という大型契約を結んでおり、ADC技術の価値が業界で高く評価されていることがわかります。こうした契約は、第一三共の株価にも大きな影響を与え、同社の時価総額は2024年6月時点でホンダを超えて10兆円を突破しました。
ADC製造の技術的課題と展望
製造の複雑性
ADCの製造は、従来の抗体医薬品や低分子医薬品と比べて格段に複雑です。抗体の製造、ペイロード(薬物)の合成、リンカーの製造、そしてバイオコンジュゲーション(抗体と薬物の結合)という複数のステップを経る必要があり、それぞれに高度な技術が求められます。
特にバイオコンジュゲーションのプロセスは、抗体と薬物を正確な比率で結合させる必要があるため、厳密な品質管理が不可欠です。製造環境も無菌化が必要で、スイスのLonza社などはグラムスケールからキロスケールのGMP製造スイート(室)を運営しています。
スケールアップの重要性
エンハーツの需要が当初予想の1.5倍に上振れるという見通しは、製造能力の大幅な拡張が急務であることを示しています。ADCのような高度な医薬品の製造をスケールアップする際には、品質を維持しながら生産量を増やすという技術的な挑戦があります。
第一三共が4カ国に分散して製造拠点を設けるのは、リスク分散だけでなく、各地域の規制要件に対応し、現地での迅速な供給を可能にするという戦略的な意味もあります。特に米国と欧州は世界最大の医薬品市場であり、現地生産は承認プロセスや市場投入のスピードにおいても有利です。
将来の技術革新
ADC技術はまだ進化の途上にあり、今後さらなる技術革新が期待されています。例えば、より安定したリンカーの開発、さらに多くのペイロードを運搬できる技術、がん細胞への選択性をさらに高める抗体設計などが研究されています。
また、ADC技術ががん以外の疾患領域にも応用される可能性があり、自己免疫疾患や感染症などへの展開も視野に入れられています。第一三共のような先行企業がプラットフォーム技術を確立することで、医薬品開発全体のパラダイムシフトが起きる可能性があります。
まとめ
第一三共の3000億円投資は、同社がADC抗がん剤分野でグローバルリーダーとしての地位を確立しようとする野心的な戦略の表れです。主力製品エンハーツの驚異的な成長、世界のADC市場の急速な拡大、そして技術革新の加速という追い風を受けて、第一三共は日米独中4カ国での製造体制を構築し、地政学リスクに対応しながら安定供給を実現しようとしています。
ADC技術は、がん細胞を狙い撃ちすることで副作用を抑えながら高い治療効果を発揮する革新的な治療法として、患者さんにとって大きな希望となっています。第一三共が2030年までに5つのADC抗がん剤を実用化し、30以上の適応症で承認を取得するという目標は、世界中のがん患者にとって福音となるでしょう。
日本の製薬企業が世界のがん治療をリードする時代が到来しつつあります。第一三共の今後の展開に注目が集まります。
参考資料:
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