2通の遺言書が家族を引き裂く「争族」の深刻な実態
はじめに
「まさか、うちの家族が相続で揉めるなんて」。多くの人がそう思いながらも、実際には家庭裁判所に持ち込まれる遺産分割事件は年々増加し、令和6年には1万5,000件を超えています。とりわけ深刻なのが、被相続人が複数の遺言書を残していたケースです。
今回注目するのは、母親が2通の遺言書を残したことで家族が分裂した事例です。1通目は介護を献身的に担った次女を優遇する内容、2通目は「実子3人のみで話し合って決めてほしい」と促す内容でした。どちらの遺言が有効かをめぐり、遺言有効確認訴訟にまで発展しました。本記事では、この事例を糸口に「争族」の実態と法的論点を掘り下げます。
2通の遺言書がもたらす法的混乱
民法1023条が定める「後の遺言」の原則
複数の遺言書が存在する場合、民法1023条1項が重要な指針となります。同条は「前の遺言が後の遺言と抵触するときは、その抵触する部分については、後の遺言で前の遺言を撤回したものとみなす」と規定しています。つまり、日付の新しい遺言が原則として優先されるのです。
この規定の趣旨は、遺言者の最終意思を尊重する点にあります。被相続人の死亡時により近い時点で作成された遺言のほうが、本人の最終的な意思を反映していると考えられるためです。ただし、内容が矛盾しない部分については、前の遺言も後の遺言もともに有効とされます。
「話し合いを促す」遺言の法的拘束力
本件で問題となるのは、2通目の遺言が「実子3人で話し合って決めてほしい」という内容であった点です。遺言書に法的拘束力が認められるのは、民法で定められた特定の事項に限られます。具体的には、相続分の指定、遺産分割方法の指定、遺贈、認知、後見人の指定などです。
一方、「話し合ってほしい」という記載は、法的には「付言事項」として扱われる可能性があります。付言事項とは、遺言者の希望や思いを伝えるメッセージであり、法的拘束力を持ちません。しかし、故人の意思が相続人に伝わることで、結果的にその内容を尊重しようとする動きが生まれることもあります。
遺言有効確認訴訟の仕組み
遺言の効力に争いがある場合、当事者は訴訟で決着をつけることになります。遺言が有効であると主張する側が提起するのが「遺言有効確認訴訟」、無効であると主張する側が提起するのが「遺言無効確認訴訟」です。いずれも家庭裁判所ではなく地方裁判所に提起します。
訴訟では、遺言の方式要件の充足、遺言作成時の遺言能力の有無、遺言者の真意に基づくものかどうかなどが争点となります。MUFG相続研究所の調査によれば、遺言無効確認裁判で最も多い争点は「遺言能力の有無」で、次いで「方式違背」「本人の意思でない」と続きます。
介護の貢献はなぜ報われにくいのか
寄与分が認められるための厳しい条件
本件の1通目の遺言が次女を優遇していた背景には、母親の介護を次女が一手に担っていたという事情があったと考えられます。しかし、仮に遺言がなかった場合、介護の貢献を相続に反映させるのは容易ではありません。
民法904条の2に定められた「寄与分」の制度では、被相続人の財産の維持または増加に特別の寄与をした相続人に対して、法定相続分に加えて追加の取り分を認めています。ところが、実際に寄与分が認められるには、扶養義務の範囲を超えた「特別の貢献」が求められます。日常的に親の面倒を見ていた程度では、特別の寄与とは判断されないのが通常です。
介護記録と証拠の壁
寄与分の主張を裏付けるには、介護日誌や領収書などの客観的な証拠が不可欠です。しかし、介護に追われる日々の中で詳細な記録を残している人は多くありません。証拠が不十分なために寄与分の主張を断念せざるを得ないケースも少なくないのが実情です。
このような背景から、介護を担った相続人が遺言書によって優遇されることには合理的な理由があります。しかし、他の相続人から見ると「不公平だ」と映ることもあり、これが争族の火種となるのです。
「争族」はなぜ増え続けるのか
遺産が少ないほど揉める現実
「相続争いは資産家だけの話」という認識は誤りです。司法統計によれば、家庭裁判所に持ち込まれる遺産分割事件のうち、遺産額5,000万円以下のケースが全体の約77.6%を占めています。最も多いのは1,000万円超5,000万円以下の層で43.8%に達します。
2025年5月の調査では、遺産が1,000万円以下の人のうち、「11万円から100万円」の差で不満を感じる人が62.2%にのぼりました。さらに、わずか「1万円」の差でも不満を感じる人が4.4%存在することが明らかになっています。遺産が少ないからこそ、1円でも多く受け取りたいという心理が働きやすいのです。
不動産の分割が難しい
遺産額5,000万円以下の相続では、遺産のほとんどが自宅不動産というケースが多くなります。不動産は現金のように簡単に分割できないため、「誰が住み続けるのか」「売却して分けるのか」といった問題で合意が得られず、争いが長期化する傾向にあります。
加えて、感情的な対立も争族を深刻化させる大きな要因です。「長年介護をしてきた自分がもっと受け取るべきだ」「親に可愛がられていた兄弟だけが得をしている」といった心理的な不満が、法的な議論を超えて人間関係を破壊していきます。
注意点・展望
相続トラブルを未然に防ぐために、いくつかの対策が考えられます。まず、遺言書は1通に集約し、内容を明確にすることが重要です。複数の遺言書が存在すると、今回のような混乱を招きかねません。
2020年7月にスタートした法務局の「自筆証書遺言書保管制度」の活用も有効です。保管申請時に形式チェックが行われるため、方式違背による無効リスクを減らせます。2023年11月時点で累計約6万4,000件の保管申請がなされており、認知度は徐々に高まっています。
また、介護の貢献を相続に反映させたい場合は、生前から介護記録を残し、家族間で方針を共有しておくことが望ましいでしょう。遺言書に付言事項として介護への感謝や分配の理由を記しておくことで、他の相続人の理解を得やすくなります。
まとめ
母親が残した2通の遺言書が家族を分裂させたこの事例は、相続における遺言の重要性と危うさを同時に浮き彫りにしています。民法は「後の遺言が優先する」という原則を定めていますが、遺言の内容や有効性をめぐる争いは、法律の条文だけでは解決できない感情的な問題を含んでいます。
「争族」を防ぐためには、被相続人が生前に明確な意思を1通の遺言書に記し、家族との対話を重ねることが何より大切です。相続は「家族の最後の共同作業」とも言われます。円満な相続のために、早めの準備と専門家への相談を検討されてはいかがでしょうか。
参考資料:
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