積極財政と財政規律の両立は可能か、海外事例から考える
はじめに
衆院選で自民党が圧勝を収めた高市早苗政権は、「責任ある積極財政」を本格化させる見通しです。その中心的な論点が、基礎的財政収支(プライマリーバランス、PB)黒字化目標の見直しです。
高市首相は国会で「単年度のPBという考え方は取り下げる」と明言し、数年単位でバランスを確認する方向への転換を示唆しました。食料品の消費税率を2年間ゼロとする公約も掲げています。積極的な財政出動と規律の維持をどう両立させるのか——海外では複数の目標を設けて財政を管理する国が多く、その仕組みから学べる点は少なくありません。
高市政権の財政政策と論点
PB目標見直しの狙い
高市首相が掲げる「責任ある積極財政」は、2つの柱で構成されています。第1の柱は防衛やサイバーセキュリティなどの「危機管理投資」、第2の柱はAI・半導体などの「成長投資」です。2026年度の当初予算では、PBを28年ぶりに黒字化した一方で、これらの分野への重点配分を進めています。
新規国債発行額はリーマンショック後2番目に低い29.6兆円に抑えられており、一定程度の財政規律への配慮がうかがえます。ただし、PBの単年度黒字化目標を取り下げたことで、将来の歳出拡大に対する歯止めが弱まるとの懸念も出ています。
食料品消費税ゼロの財源問題
高市首相が選挙公約に掲げた食料品の消費税率2年間ゼロは、実現すれば年間約5兆円の税収減となります。首相は赤字国債に頼らず、補助金や租税特別措置の見直し、税外収入で財源を確保する方針を示しています。夏前までに中間取りまとめを行い、早期実現を目指す意向です。
しかし、代替財源の具体策はまだ明示されていません。野村総合研究所の試算では、食料品消費税ゼロの実質GDP押し上げ効果は+0.22%にとどまるとされ、費用対効果を疑問視する声もあります。実施期間が「2年間限定」で本当に終わるのかという懸念もあり、恒久化すれば財政への影響はさらに大きくなります。
海外の財政規律:複数目標と独立機関
EU:4つの財政ルールを併用
EU加盟国は複数の財政ルールによって財政を管理しています。主な指標は以下の4つです。
- 財政赤字基準: GDP比3%以内
- 債務残高基準: GDP比60%以下を目指す
- 構造的財政収支ルール: 景気変動を除いた財政バランスの目標
- 歳出ベンチマーク: 歳出の伸び率に上限を設定
日本のPB一本の目標と比べると、複数の角度から財政状況を評価する仕組みです。ただし、EU加盟国がこれらのルールを常に遵守しているわけではなく、コロナ禍では規律が一時的に棚上げされた経緯もあります。
ドイツ:債務ブレーキの改革
ドイツは2009年に「債務ブレーキ(Schuldenbremse)」を憲法に明記し、連邦政府の構造的財政赤字をGDP比0.35%以内に制限してきました。厳格な財政規律の象徴とされてきたこのルールですが、2025年3月に歴史的な改革が行われました。
防衛費のGDP比1%超過分を借入制限から除外し、5,000億ユーロ規模のインフラ投資基金を新設するなど、大幅な緩和が実施されました。安全保障環境の変化やインフラ老朽化に対応するためです。
ドイツの事例は、厳格すぎるルールが必要な投資を阻害するリスクを示しています。同時に、緩和にあたっても憲法改正という重い手続きを経たことで、政治的な正当性を確保した点は注目に値します。
英国:独立財政機関(OBR)の役割
英国は2010年に予算責任局(Office for Budget Responsibility:OBR)を設立しました。OBRは政府から独立した立場で、マクロ経済予測と財政見通しを作成し、政府の予算計画を評価します。
従来は財務省が自ら経済予測を行っていましたが、予測の客観性を担保するためにOBRに移管されました。政府の楽観的な見通しに基づく歳出拡大を抑制する効果が期待されています。
OECD加盟国では、リーマンショックと欧州債務危機を経て、各国で独立財政機関の設立が相次ぎました。政治家の裁量に頼るだけでは財政規律が守られないという教訓から生まれた仕組みです。
注意点・展望
日本に求められる財政ガバナンス
日本のPB目標は長らく「達成目標」として掲げられてきましたが、先送りが繰り返され、実効性に疑問が呈されてきました。高市首相による見直しは、形骸化した目標を改めるという意味では合理性があります。
ただし、代わりとなる指標や仕組みが不十分なまま目標を取り下げれば、市場からの信認を損なうリスクがあります。海外の事例を参考に、以下のような対応が考えられます。
- 複数指標の導入: PBだけでなく、債務残高GDP比や歳出の伸び率など複数の目標を設定する
- 独立財政機関の設置: 政府から独立した立場で財政見通しを評価する機関を設ける
- 行動指針の策定: 財政運営に関する明確なルールや手続きを法制化する
市場との対話が鍵
自民党の圧勝で政策実行力は高まりましたが、大規模な財政出動は円安や長期金利の上昇を招く可能性があります。日銀の利上げ局面と重なる中で、財政拡張がどこまで持続可能かは慎重な見極めが必要です。市場との丁寧な対話を通じて、財政運営への信頼を維持することが求められます。
まとめ
高市政権の「責任ある積極財政」は、成長投資と危機管理投資を重視する方針として一定の意義があります。しかし、PB目標の見直しにあたっては、代替となる規律の枠組みが不可欠です。
EUの複数指標、ドイツの債務ブレーキ改革、英国の独立財政機関といった海外の事例は、それぞれ一長一短がありますが、「財政規律は単一の数値目標だけでは維持できない」という共通の教訓を示しています。日本が自国の状況に合った実効的な財政ガバナンスを構築できるかどうかが、積極財政の成否を左右するでしょう。
参考資料:
- 高市首相、プライマリーバランスの黒字化「数年単位で確認」 単年度目標取り下げ
- 高市政権の積極財政は成長力を高めるか、財政リスクを高めるか(大和総研)
- プライマリーバランス単年度黒字化目標の取り下げは財政健全化方針の転換か(NRI)
- Germany’s U-turn proves Europe’s fiscal framework must change
- Germany Ditches Debt Brake—A Fiscal Revolution Begins
- Fiscal frameworks - UK in a changing Europe
- 高市首相、食料品消費税率「2年間ゼロ」の実現に意欲(Bloomberg)
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