王子HDが退職一時金を廃止へ 給与上乗せで人材獲得強化
はじめに
王子ホールディングス(HD)が、2026年春入社以降の新入社員を対象に退職一時金を廃止する方針を打ち出しました。退職金の原資を月々の基本給に上乗せする形で、実質的な給与引き上げを実現します。
大企業が退職一時金を全面的に廃止するのは極めて異例です。厚生労働省の「就労条件総合調査」によると、従業員1,000人以上の大企業では約90%が退職給付制度を維持しています。その常識を覆す今回の決断は、日本の雇用慣行の転換点となる可能性があります。
本記事では、王子HDの退職一時金廃止の背景、退職金制度の現状と変化のトレンド、そして今後の日本企業の報酬体系に与える影響について詳しく解説します。
退職一時金廃止の背景と狙い
若年層の価値観の変化
退職一時金は、長く勤めるほど金額が増える仕組みで、終身雇用を前提とした日本独自の制度です。しかし近年、若年層を中心に「将来の退職金より、今の月給を重視する」という意識が強まっています。
転職市場の活性化により、一つの企業に定年まで勤め続けることを前提としない働き方が広がっています。中途入社で数年後に転職する場合、退職一時金は勤続年数が短いため十分な金額にならないケースが多く、若手社員にとっては魅力が薄い制度となっていました。
中途採用の拡大への対応
王子HDは製紙業界の大手として、デジタルトランスフォーメーション(DX)や新規事業開発のために中途採用を強化しています。即戦力となる中途人材の獲得競争が激化するなかで、目に見える形で待遇を向上させることが求められていました。
退職一時金を廃止して基本給に上乗せすれば、入社直後から高い報酬を実感でき、中途採用市場での競争力が高まります。特に他業界からの転職者にとっては、退職金の引き継ぎ問題を気にする必要がなくなるメリットがあります。
資産形成意識の高まり
NISAやiDeCo(個人型確定拠出年金)の普及により、資産運用を自分で行いたいと考える若年層が増えています。退職金として会社に預けるよりも、毎月の給与が増えた分を自分で投資に回したいというニーズに応える狙いもあります。
退職金制度の日本における現状と変化
制度を取り巻く環境
厚生労働省の「就労条件総合調査」(2023年)によると、退職給付制度のある企業の割合は74.9%で、2018年調査の80.5%から5年間で約5.6ポイント低下しています。特に中小企業では制度の見直しや廃止が進んでいます。
退職給付の内訳を見ると、退職一時金のみの企業が最も多いものの、確定拠出年金(DC)への移行を進める企業も増加傾向にあります。低金利環境の長期化で、確定給付型(DB)の運用負担が企業にとって重荷になっていることが背景にあります。
前払い退職金制度の先行事例
退職金を給与に上乗せして支払う「前払い退職金制度」は、1998年に松下電器産業(現パナソニック)が導入したことで注目を集めました。パナソニックでは退職金と前払いの選択制とし、新入社員の約半数が前払いを選択しているとされています。
その後、富士通やSMBC日興証券なども同様の制度を導入しています。ただし、これらは「選択制」であり、退職一時金そのものを完全に廃止する今回の王子HDの決断とは性質が異なります。
確定拠出年金(DC)への移行トレンド
退職金制度の見直しでは、確定拠出年金(DC)への移行も大きなトレンドです。企業が運用リスクを負わず、従業員が自ら資産運用を行うDCは、キャリアの多様化や転職時のポータビリティ(持ち運び可能性)の面でメリットがあります。
王子HDの今回の施策は、DCへの移行とは異なり、退職後の給付そのものを廃止する点で、より踏み込んだ改革といえます。
従業員と企業にとってのメリット・デメリット
従業員側のメリット
基本給が増えることで、毎月の手取り額が増加します。住宅ローンの審査や生活設計においても、基本給の高さはプラスに働きます。さらに、転職時に退職金の減額を心配する必要がなくなり、キャリア選択の自由度が高まります。
従業員側の注意点
一方で、税務面での不利益が生じる可能性があります。退職一時金には「退職所得控除」という大きな税制優遇があり、勤続20年超では年70万円の控除が適用されます。基本給に上乗せされた場合は通常の給与所得として課税されるため、所得税・住民税・社会保険料の負担が増える可能性があります。
また、退職金としてまとまった金額を受け取れないため、計画的な貯蓄や資産運用ができないと、老後資金が不足するリスクもあります。
企業側の視点
企業にとっては、将来の退職給付債務を圧縮できるメリットがあります。退職金は勤続年数に応じて増加するため、長期的な財務負担となりますが、月給への振り替えにより、その負担が平準化されます。
また、採用市場での競争力向上や、成果主義的な報酬体系への移行を加速できるという利点もあります。
今後の展望と注意点
他の大企業への波及
王子HDの決断が、他の大企業にどこまで波及するかが注目されます。製造業を中心に、退職金制度の見直しを検討している企業は多く、今回の事例が後押しになる可能性があります。
ただし、既存社員の退職金を一方的に廃止することは労働条件の不利益変更にあたり、法的なハードルが高いです。王子HDが「2026年春入社以降」に限定したのは、この問題を回避するためと考えられます。
日本の雇用慣行の転換
退職一時金の廃止は、年功序列・終身雇用を前提とした日本型雇用の象徴的な制度の一つが崩れることを意味します。ジョブ型雇用への移行や成果主義の導入と合わせて、日本企業の人事制度が大きく変わっていく兆候といえます。
税制改正の可能性
退職所得控除の仕組みは、長期勤続を優遇する設計になっています。政府は以前から、この「勤続年数による優遇差」の見直しを検討しており、退職金前払いへの移行が進めば、税制面の議論も加速する可能性があります。
まとめ
王子ホールディングスによる退職一時金の廃止は、大企業としては異例の決断です。中途採用の強化、若年層の価値観の変化、資産形成意識の高まりといった複合的な要因が背景にあります。
従業員にとっては月給アップの恩恵がある一方、退職所得控除の優遇を受けられなくなる点には注意が必要です。自らの資産形成を計画的に行う力が、これまで以上に求められる時代になるといえるでしょう。
今回の動きは、日本の雇用慣行が「終身雇用・年功序列」から「流動的・成果重視」へと転換する大きな流れの一部です。今後、同様の動きが他の大企業にも広がるか注目されます。
参考資料:
関連記事
春闘賃上げ率5.26%、中小も5%超で人材争奪が加速
2026年春闘の第1回回答集計で賃上げ率は平均5.26%となり、3年連続の5%台を記録しました。中小企業も5.05%と高水準を維持する背景にある人材確保競争と、今後の課題を解説します。
ソニーG賃上げ、主任級で最大月6万円の過去最大幅
ソニーグループが2026年度から主任級社員の月額給与を最大6万円引き上げると発表。標準モデルでも2万4000円増で、現行制度で過去最大の上げ幅となります。春闘の動向と背景を解説します。
2026年春闘集中回答日、満額回答が続出した背景
2026年春闘の集中回答日で大手企業の満額回答が相次ぎました。3年連続5%超の賃上げ実現へ、人材確保を軸にした労使交渉の動向と中小企業への波及を解説します。
2026年春闘で満額回答が相次ぐ理由と今後の焦点
2026年春闘の集中回答日でトヨタや三菱重工が満額回答。3年連続5%超の賃上げが実現する背景、業種別の動向、中小企業への波及を詳しく解説します。
春闘2026、製造業6割が満額回答も原油高が影を落とす
2026年春闘の集中回答日を迎え、トヨタや日立など製造業大手の6割超が満額回答しました。3年連続5%超の賃上げが実現する一方、原油高騰が実質賃金や中小企業に及ぼす影響を分析します。
最新ニュース
アクティビストの標的が変化、還元から再編へ
割安株の減少でPBR1倍超え企業も標的に。アクティビストの投資戦略が株主還元から事業再編へとシフトする背景と今後の展望を解説します。
アームが初の自社製チップ発表、AI半導体市場に本格参入
ソフトバンクグループ傘下の英アームが35年の歴史で初めて自社製チップ「AGI CPU」を発表。メタやOpenAIを顧客に迎え、5年で年間150億ドルの売上を目指す戦略転換の全容を解説します。
Armが半導体自前開発に参入、AI向けCPUで事業転換
ソフトバンク傘下の英Armが35年間のIPライセンスモデルを転換し、自社開発チップ「AGI CPU」でメタやオープンAIにAI半導体を直接供給する戦略の背景と影響を解説します。
イビデン大幅続伸の背景と半導体銘柄上昇の全貌
2026年3月25日、イビデンが特別利益491億円の計上発表で大幅続伸。半導体関連銘柄が軒並み上昇した背景には、米イラン停戦期待による原油下落と投資家心理の改善がありました。
イラン強硬派「3人組」の実権と米15項目和平案の行方
ハメネイ師亡き後のイランで実権を握る革命防衛隊出身の強硬派3人組と、トランプ政権が提示した15項目の和平案の内容・交渉の行方を詳しく解説します。