武田と京大のiPS共同研究が終了、10年200億円で新薬には至らず
はじめに
武田薬品工業と京都大学iPS細胞研究所(CiRA)は2026年2月3日、10年間続いたiPS細胞の産学連携研究プログラム「T-CiRA」を2025年度末で終了すると発表しました。武田が200億円を超える研究費を提供した日本最大級の産学連携でしたが、具体的な新薬の上市には至りませんでした。
iPS細胞から新薬を生み出すことがいかに難しいか、そして10年間で何が得られたのか。本記事では、T-CiRAの軌跡と成果、そしてiPS細胞による創薬の現状について解説します。
T-CiRAプログラムとは
日本最大級の産学連携
T-CiRA(Takeda-CiRA Joint Program for iPS Cell Applications)は、2015年4月に契約が締結され、2016年度から研究活動が本格始動した共同研究プログラムです。武田薬品が10年間で200億円超の研究費用を提供し、山中伸弥教授の統括指揮のもとで研究が進められました。
これは日本の製薬業界において最大規模の産学連携であり、iPS細胞技術の実用化に向けた期待を背負ってスタートしました。
研究対象疾患
T-CiRAでは以下の疾患領域を対象に、iPS細胞技術の臨床応用に向けた研究が行われました。
- 心不全
- 1型糖尿病
- がん(特にCAR-T細胞療法)
- 神経疾患
- 難治性筋疾患
これらは既存の治療法では十分な効果が得られない難病が多く、iPS細胞による新しいアプローチに期待が寄せられていました。
10年間の主な成果
iPS細胞由来CAR-T細胞療法(iCART)
CiRAの金子新准教授と武田薬品の研究チームは、iPS細胞を用いたCAR-T療法(iCART)を開発しました。従来のCAR-T療法は患者自身の細胞を使うため製造に時間がかかりますが、iCARTはiPS細胞から大量生産・ストックできるため、必要な患者にすぐ提供できる可能性があります。
非臨床試験では、CD19を標的とするiCARTが強い抗腫瘍効果を発揮することが確認されています。
心筋細胞・膵島細胞プロジェクト
吉田善紀准教授が開発したiPS細胞由来心筋細胞と、豊田太郎講師が開発したiPS細胞由来膵島細胞は、非臨床試験で有効性が検証されました。これらのプロジェクトは後にオリヅルセラピューティクス社に移管され、実用化に向けた開発が継続されています。
特に膵島細胞については、2025年1月から1型糖尿病患者を対象とした医師主導治験が京都大学医学部附属病院で開始されています。
筋疾患治療薬候補の発見
ジスフェルリン異常症という筋疾患について、患者由来のiPS細胞から作製した骨格筋細胞を用いた薬剤スクリーニングを実施。既存薬ライブラリーから抗がん剤ノコダゾールが候補薬として見出されました。
人材育成と基盤技術
山中伸弥名誉所長は終了イベントで「創薬には短い時間だったが、成果は順調に得られた」とコメント。具体的な新薬には至らなかったものの、人材育成や基盤技術の蓄積では成果を残したと評価しています。
武田薬品側も「創薬の競争力を得た」と総括しており、iPS細胞を活用した研究開発のノウハウが社内に蓄積されたことを成果として挙げています。
なぜ新薬に至らなかったのか
創薬に必要な時間
山中教授はかねてから「再生医療や創薬といったiPS細胞の医療応用の研究は、10年単位の期間が必要」と述べてきました。新薬開発には一般的に10〜15年以上かかるとされており、T-CiRAの10年間は創薬プロセスのスタート段階に過ぎなかったともいえます。
通常の創薬では、基礎研究から非臨床試験、第1相〜第3相の臨床試験を経て承認に至ります。T-CiRAで生まれた研究成果の多くは現在も開発が継続されており、成果が出るのはこれからです。
iPS細胞特有の課題
iPS細胞を用いた創薬には、従来の創薬とは異なる課題があります。
- 細胞の品質管理: iPS細胞から分化させた細胞の均一性を保つことが難しい
- スケールアップ: 研究室レベルから製造レベルへの拡大に技術的課題がある
- コスト: 細胞培養や品質検査にかかるコストが高い
- 安全性の検証: 移植後の長期的な安全性データが必要
成果は引き継がれている
オリヅルセラピューティクスの設立
2021年8月、武田薬品と京都大学などはiPS細胞由来の再生医療の事業化に特化した新会社「オリヅルセラピューティクス」を設立しました。T-CiRAで開発されたiPS細胞由来心筋細胞と膵島細胞のシーズは、この新会社に移管されています。
山中教授は「T-CiRAの革新的な研究成果が、オリヅルセラピューティクスに受け継がれることを非常に嬉しく思います」とコメントしています。
臨床試験への展開
T-CiRAの成果を基にした臨床試験も進んでいます。2025年1月からは、iPS細胞由来膵島細胞シートを用いた1型糖尿病患者対象の医師主導治験が開始されました。また、iCART療法についても臨床試験に向けた準備が進められています。
iPS細胞創薬の現状と展望
国内の臨床試験状況
日本では2023年4月時点で、神経細胞や網膜細胞など17件のiPS細胞関連プロジェクトで臨床試験が進められています。パーキンソン病、網膜色素変性、心不全など、様々な疾患を対象とした研究が進行中です。
住友ファーマは2024年12月に住友化学と再生・細胞医薬事業の新会社ラクセラを設立し、パーキンソン病を対象とした世界初のiPS細胞由来製品の開発を日米で進めています。
企業の動向
Heartseedは2025年2月、虚血性心疾患に伴う重症心不全を対象とするiPS細胞由来心筋球の第1・2相試験で患者組入れが完了したと発表。2027年の承認・販売開始を目指しています。
慶応大学発ベンチャーのケイファーマは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を対象とした創薬で国内第3相臨床試験を準備中です。
課題と期待
慶応大学の岡野栄之氏は「日本は先陣を切って再生医療をやりやすい土壌を作ってきた。実用化にも世界から高い注目が集まっており、正念場を迎えている」と指摘しています。
一方で、米国ではベンチャー企業がGMPに準拠したiPS細胞を研究用に販売するなど、ビジネス化が加速しており、日本の優位性への危機感も高まっています。
まとめ
武田薬品と京都大学iPS細胞研究所の共同研究プログラムT-CiRAは、10年間で200億円を投じながらも具体的な新薬の上市には至りませんでした。しかし、これは必ずしも失敗を意味するものではありません。
創薬には10〜15年以上かかるのが一般的であり、T-CiRAで蓄積された基盤技術、育成された人材、そして開発パイプラインは今後の成果につながる可能性があります。オリヅルセラピューティクスへの移管や進行中の臨床試験など、10年間の研究は着実に次のステップへと引き継がれています。
iPS細胞による創薬は長期戦です。T-CiRAの終了は一つの区切りですが、iPS細胞が医療に貢献する可能性は依然として大きく、今後の展開に注目が集まります。
参考資料:
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