民主主義と財政赤字の「無限ループ」を断つには
はじめに
2026年1月27日に公示された衆議院選挙を前に、ある経済学者の予言が注目を集めています。1986年にノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・M・ブキャナンが約50年前に著した『赤字の民主主義〜ケインズが遺したもの』の中で、「民主主義の下では財政赤字は膨張し続ける」と警告しました。
「どんなに高い理想があっても選挙に勝たなければ政治はできない」。この冷徹な原則の下で、与野党が消費税減税を含む物価高対策を競い合う現在の選挙戦は、まさにブキャナンの予言通りの姿となっています。
本記事では、なぜ民主主義社会で財政赤字が膨らみやすいのか、日本の財政状況はどこまで悪化しているのか、そして「期待と失望」の無限ループに終止符を打つ方策について考察します。
ブキャナンの「赤字の民主主義」とは何か
ケインズ経済学への根本的批判
ジェームズ・M・ブキャナン(1919〜2013)は、アメリカの経済学者であり「公共選択論」の創始者として知られています。1977年にリチャード・ワグナーと共著で発表した『赤字の民主主義』は、ケインズ経済学が民主主義社会にもたらす弊害を鋭く指摘した著作です。
経済学の始祖アダム・スミスは「国家財政は家計となんら変わらない」と説きました。この「責任財政」の原則は、ケインズ革命によって崩れ去りました。ケインズは、家計と財政は別物であり、均衡財政の「呪縛」から解き放たなければ失業も不況もなくならないと説いたのです。
理論と現実のギャップ
ケインズの処方箋は、不況時の財政赤字を好況時の財政黒字で相殺するというものでした。しかし、これは知識階級のエリート層が政策を自由に決定できる世界を想定していました。
ブキャナンとワグナーは、現実の民主主義社会では政治家は選挙があるため、減税はできても増税は困難であることを指摘しました。政府・政治家はつねに公共事業など人気取りのばらまき政策に走りがちであり、一方で選挙民大衆もその税負担を明確に意識することがないため、ケインズ的財政政策はもっぱら財政悪化という帰結に至るというのです。
政府歳出拡大の三つの手段
ブキャナンは、政府の歳出拡大には増税・公債・通貨発行の三つの手段があると分析しました。そのどれもが私的財の公共財への移転をもたらしますが、特に公債と通貨発行についてはインフレという形で財産移転が行われるため、主権者から見て分かりづらくされる点で悪質だと主張しています。
日本財政の現状:世界で突出した債務水準
GDP比200%超という現実
日本の債務残高の対GDP比は、G7諸国のみならず世界各国と比べても突出した水準にあります。2020年には過去最高の258%を記録し、GDPの2倍を超える債務を抱えています。
主要7カ国(G7)の中で、日本はイタリアに次いで低い国債格付けとなっています。この財政状況は国際的な信認にも影響を与えており、市場の評価は厳しいものがあります。
令和臨調の警鐘
民間有識者でつくる令和国民会議(令和臨調)は2025年6月、財政健全化の新たな提言をまとめました。2026年度以降の数値目標として債務残高のGDP比を掲げ、10年以内に25〜30ポイント程度の引き下げを求めています。
債務残高比率を下げられれば、格付けの引き上げも視野に入るとの見方がある一方、現状は200%を優に超えており、改善への道のりは険しいと言わざるを得ません。
インフレ下の積極財政の矛盾
2025年度の補正予算は18兆円を超える規模に積み上がり、2026年度予算案は過去最大の122兆円規模となりました。物価高対策として国民民主党や公明党の要求を取り込んだ結果です。
しかし、国債発行に依存しながらのインフレ下での積極財政に対して、市場の反応は芳しくありませんでした。円が売られ長期金利は上昇し、金利のある世界における財政運営の難しさが浮き彫りになっています。
なぜ「ばらまき競争」は止まらないのか
少数与党と野党の攻防
2度の国政選挙を経て、自民党は衆参両院で過半数を割り少数与党に転落しました。衆院では与党でギリギリ過半数の233議席に届いているものの、参院では与党過半数割れの状態が続いています。
この政治状況は、野党の要求を受け入れざるを得ない構造を生み出しています。消費税減税を含む物価高対策で与野党が競い合う現在の選挙戦は、まさにブキャナンが予言した「民主主義の構造的欠陥」が表出したものと言えます。
ポピュリズムの台頭
2025年の参院選後、既成政党を批判して不満を吸収した新興野党が躍進し、ポピュリズムが浸透しつつあることが指摘されています。オックスフォード英語辞典はポピュリズムを「自分たちの関心・懸念がエリート層に無視されていると考える一般市民に訴求しようと努める政治的なアプローチ」と定義しています。
日本ではポピュリズム支持の高さは所得や属性よりも政治不信や将来への悲観度に比例するというデータがあります。選挙によって選んだ議員が期待していた政治をできていないという歪みが、ポピュリズム台頭の背景にあるとされています。
積極財政を掲げる政党の台頭
国民民主党は積極的に国債の活用を主張し、「赤字国債を堂々と発行」と述べ、「教育国債」や国債の一部の「永久国債化」も提言しています。れいわ新選組、参政党、国民民主党の3党は明確な積極財政の政党とされています。
これらの主張は有権者の支持を集める一方で、財政規律の観点からは懸念材料となっています。
財政規律回復への処方箋
ブキャナンの提案:憲法による財政均衡義務
ブキャナンとワグナーは、民主主義の下で財政を均衡させ政府の肥大化を防ぐには、憲法で財政均衡を義務付けるしかないと主張しました。政治家の裁量に任せていては、選挙を意識した支出拡大圧力に抗することは困難だからです。
実際に、ドイツなど一部の国では憲法に財政規律条項を設けています。日本でもこうした議論が必要な段階に来ているという声があります。
金利上昇リスクへの備え
2026年度以降、金利が想定より1%上昇した場合のストレステストも行われており、金利のある世界においては市場の信認確保が重要とされています。長期金利の上昇は国債の利払い費を増加させ、財政をさらに圧迫する悪循環を招きかねません。
債務GDP比率の安定化条件
近年、日本の債務GDP比率は減少傾向にあります。2020年の258%から2023年まで3年続けて下落しました。これは「ドーマー条件」と呼ばれる関係によるもので、名目金利(r)が名目経済成長率(g)よりも小さければ、債務GDP比率は収束していきます。
ただし、この条件が今後も維持される保証はなく、インフレ率の上昇や金融政策の正常化により状況は変わり得ます。
まとめ
ブキャナンが50年前に警告した「民主主義と財政赤字の無限ループ」は、2026年の日本においても現在進行形で続いています。与野党が消費税減税を競い合う選挙戦、積極財政を掲げる政党の台頭、少数与党による野党への妥協。これらすべてが、選挙を意識した財政拡張圧力の表れです。
日本の債務残高はGDP比200%を超え、G7で最悪水準にあります。令和臨調が10年で25〜30ポイントの引き下げを提言しましたが、実現への道筋は不透明です。
財政規律の回復には、短期的な選挙対策と中長期的な国家運営のバランスをどう取るかという、民主主義の根本的な課題に向き合う必要があります。有権者一人ひとりが「誰が負担するのか」を意識し、持続可能な財政運営を求める声を上げることが、無限ループに終止符を打つ第一歩となるでしょう。
参考資料:
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