エルサルバドルの殺人率50分の1の奇跡、ブケレ大統領の強権政治と人権問題
はじめに
中米エルサルバドルの殺人発生率(人口10万人あたり)が、2025年に1.3(前年は1.9)に低下し、国際社会に衝撃を与えています。わずか10年前の2015年には105人と世界最悪レベルだったこの国が、劇的な治安改善を実現したのです。
この奇跡の立役者が、2019年に就任したナジブ・ブケレ大統領(44歳)です。「治安を守る」と掲げて就任した彼は、2024年には85%の得票率で再選を果たしました。しかし、治安改善の裏には、8万人超の拘束、人権侵害の告発、そして独裁化への懸念が渦巻いています。
本記事では、エルサルバドルがどのようにして世界最悪の治安から脱却したのか、そしてその代償は何だったのかを詳しく解説します。
エルサルバドルの治安が悪化した背景
マラス・ギャングの起源
エルサルバドルの治安悪化を理解するには、「マラス」と呼ばれるギャング組織の歴史を知る必要があります。マラスは1970年代後半から1980年頃に、カリフォルニア州ロサンゼルスで、エルサルバドル内戦から逃れてきた難民の若者たちによって結成されました。
当初は、ロサンゼルスの他のギャング集団からエルサルバドル系移民を守ることが目的でした。しかし次第に組織化が進み、二大勢力が形成されました。1980年代に結成されたマラ・サルバトルチャ(MS-13)と、1958年に結成され後にエルサルバドル系移民を受け入れたバリオ18(エイティーンス・ストリート・ギャング)です。
ギャングカルチャーの逆流入
1990年代、アメリカ政府が犯罪歴のある若者たちを強制送還したことで、ロサンゼルスのギャングカルチャーがエルサルバドルに持ち込まれました。内戦で社会的紐帯が失われ、経済不安から移民した親に取り残された子供や、紛争で親を失った子供が多く存在していたエルサルバドルでは、孤独な若者たちがギャングに勧誘されやすい環境が整っていました。
1990年代に流れ込んだギャングたちは約30年後には自治体の約90%に存在するようになり、人口約650万人中、約50万人がギャングに何らかの形で関与する状況となりました。2015年には人口10万人あたりの殺人事件発生件数が105人と、過去最高を記録しました。
ブケレ大統領の治安対策と劇的な改善
非常事態宣言と大量拘束
ブケレ大統領は2022年3月、非常事態宣言を布告し、ギャングを令状なしで逮捕できるようにするなど締め付けを強化しました。例外措置体制(憲法で保障される権利の一時的制限措置)のもとで、「マラス」等のギャング構成員の身柄を次々と拘束した結果、2025年1月現在、拘束者数は8万人以上となっています。
この強硬策により、殺人件数は劇的に減少しました。2022年の殺人件数は496件、2023年は156件、2024年は114件と、わずか3年間で約80%減少したのです。人口10万人あたりの殺人発生率は、2024年には1.9人、2025年には1.3人にまで低下しました。
国民の圧倒的支持
この治安改善により、ブケレ大統領は国民から圧倒的な支持を得ています。2024年の大統領選挙では85%の得票率で再選を果たしました。TikTokでは1100万人を超えるフォロワーを抱え、国家元首としてはトランプ氏に次ぐ数を誇っています。
かつて世界最悪の治安に苦しんでいた国民にとって、日常生活で安全を感じられるようになったことの意義は計り知れません。女性が夜間に一人で外出できる、子供を安心して学校に送り出せる、商店が強盗を恐れずに営業できる——こうした当たり前の生活が、ブケレ政権によって実現したのです。
巨大刑務所の建設
ブケレ政権は、4万人を収容できる巨大刑務所「テロリズム抑制センター(CECOT)」を建設しました。この刑務所は、ギャング構成員を社会から完全に隔離し、外部との連絡を遮断することで、ギャング組織の活動を根本から断つことを目的としています。
刑務所内の環境は極めて厳しく、過密度148%の状態で、少なくとも235人が亡くなったと報告されています。国際的には「非人道的」との批判も出ていますが、ブケレ大統領は正当性を主張し続けています。
深刻な人権侵害への懸念
恣意的拘束と強制失踪
治安改善の裏で、深刻な人権侵害が報告されています。2024年2月現在、被害者団体や現地の人権団体、報道機関によると、強制失踪327件と恣意的拘束7万8000件以上など、およそ10万2000人が自由を奪われています。
ヒューマン・ライツ・ウォッチは、ギャング取り締まり中にエルサルバドル当局が恣意的逮捕、強制失踪、虚偽の自白、警察拘留中の死亡などの人権侵害を犯しているという「証拠」と「信憑性のある申し立て」が積み重なっていると述べています。
国連人権高等弁務官事務所の報道官リズ・スロッセルは、ギャング取り締まり中のエルサルバドル治安部隊の行動を「不必要で過剰な武力行使」と呼びました。
無実の市民の誤認逮捕
特に深刻なのは、無実の市民が誤認逮捕されるケースです。ギャングとは無関係の若者が、タトゥーを入れているだけで容疑者として拘束されたり、密告によって理由もなく逮捕されたりする事例が相次いでいます。
令状なしでの逮捕が可能になったことで、警察の裁量が極めて大きくなり、適正手続きの保障が失われました。拘束された人々の多くは、弁護士に接見する権利も、家族に連絡する権利も与えられていません。
批判への恐怖
アーカンソー中央大学(UCA)による調査では、エルサルバドルの57.9%の国民がブケレ氏を批判することに「恐怖を感じている」と回答しています。人権擁護活動家や反体制派、批判的な声を上げる人は、非常事態下で犯罪者扱いされるため、危険が増しているのです。
この状況は、言論の自由や表現の自由が大きく制限されていることを示しています。国民の圧倒的支持は、治安改善への感謝だけでなく、批判することへの恐怖によっても維持されている可能性があります。
独裁化への懸念
憲法違反の再選
ブケレ氏は2019年に初めて大統領に就任しましたが、エルサルバドルの憲法では大統領の再選が禁止されているにもかかわらず、2024年の選挙で再選を果たしました。これは明確な憲法違反ですが、ブケレ氏が支配する司法府はこれを容認しました。
国際人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチのフアニタ・ゴエバルトゥス氏は、「エルサルバドルはベネズエラと同じ道を歩んでいる」と非難し、人気を利用して権力を集中させる政治的手法が最終的に独裁体制に繋がるとの見解を示しました。
司法の独立性の喪失
ブケレ政権は、司法の独立性も侵食しています。最高裁判所の判事を自派で固め、政権に不都合な判決を出させない体制を構築しました。これにより、大統領再選の違憲性が問われることなく、ブケレ氏の権力基盤が強化されています。
立法府も政権の支配下にあり、三権分立が実質的に機能していない状況です。このような権力の集中は、独裁体制への典型的な道筋と言えます。
国際社会からの批判
アムネスティ・インターナショナルは、非常事態宣言から2年が経過し、人権侵害が日常化していると警告しています。しかし、エルサルバドル国内の圧倒的な支持を背景に、ブケレ大統領は国際社会からの批判を意に介していません。
むしろ、国際社会の批判を「外国勢力の内政干渉」と位置づけ、ナショナリズムを煽ることで国民の支持をさらに固めている側面もあります。
安全と自由のトレードオフ
国民の選択
エルサルバドル国民の多くは、人権侵害のリスクを認識しつつも、治安改善を優先する選択をしています。日々の暴力の恐怖から解放されたことの価値は、抽象的な人権よりも実感しやすいのです。
しかし、この選択には大きなリスクが伴います。一度容認された人権侵害は、次第に拡大し、最終的には一般市民の自由をも脅かす可能性があります。今は「ギャング」を対象としている強権的な措置が、将来的には政治的反対派や批判的な市民にも向けられるかもしれません。
他国への影響
エルサルバドルの「成功」は、治安に悩む他の中南米諸国に影響を与える可能性があります。民主主義や人権よりも「秩序と安全」を優先する政治スタイルが、他国でも模倣される懸念があります。
一方で、エルサルバドルのモデルが長期的に持続可能かどうかは不透明です。8万人超を拘束し続けることの経済的・社会的コストは膨大であり、ギャング構成員の社会復帰や若者の犯罪予防といった根本的な対策なしには、治安の維持は困難でしょう。
注意点と今後の展望
日本との比較
エルサルバドルの殺人発生率1.3は、かつての水準と比べれば劇的な改善ですが、殺人発生率1を切る日本と比べればなお5倍程度と高い水準です。「世界最悪」からの脱却は成功しましたが、先進国並みの治安には至っていません。
また、日本の低犯罪率は、強権的な取り締まりではなく、社会的紐帯、経済的安定、教育水準の高さなど、多面的な要因によって実現されています。エルサルバドルが真の意味で安全な社会を実現するには、強権政治に頼らない社会基盤の構築が必要でしょう。
長期的な持続可能性
現在の治安改善は、非常事態宣言という一時的な措置に依存しています。この体制を恒久化することは、民主主義の完全な放棄を意味します。一方、非常事態を解除すれば、ギャング活動が再び活発化するリスクがあります。
持続可能な治安維持には、若者の雇用創出、教育機会の拡大、貧困対策など、犯罪の根本原因に対処する必要があります。しかし、ブケレ政権はこうした長期的な対策よりも、即効性のある強権的手法を優先しているようです。
国際社会の対応
国際社会は、エルサルバドルの人権侵害を批判しつつも、治安改善の成果を無視することもできません。単純な非難ではなく、人権を尊重しつつ治安を改善する代替的な方法を提示し、支援することが求められます。
また、マラス・ギャングの起源がアメリカにあることを考えれば、米国も一定の責任を負うべきでしょう。強制送還された若者たちが母国で犯罪組織を拡大させた経緯を踏まえ、より建設的な移民政策と中米諸国への支援が必要です。
まとめ
エルサルバドルの殺人発生率が1.3にまで低下したことは、統計上の奇跡と言えます。ブケレ大統領の強権的な治安対策は、世界最悪の治安から国民を解放し、圧倒的な支持を得ています。
しかし、その代償は大きなものです。8万人超の拘束、恣意的逮捕、強制失踪、そして言論の自由の制限。国際社会は深刻な人権侵害と独裁化を懸念しています。国民の57.9%が大統領批判を恐れているという事実は、この「成功」の暗い側面を物語っています。
安全と自由は、本来対立するものではありません。民主主義と人権を犠牲にせずに治安を改善する道は存在するはずです。エルサルバドルの経験は、世界に対する重要な問いを投げかけています。秩序のための自由の放棄は、本当に正当化されるのか。そして、強権政治による「安全」は、長期的に持続可能なのか。
今後のエルサルバドルの動向は、同様の課題に直面する国々にとって、重要な教訓となるでしょう。
参考資料:
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