エルサルバドルの治安改革:殺人率98%減の代償
はじめに
中米エルサルバドルが、世界最悪レベルの治安状況から劇的な改善を遂げています。2025年の殺人発生率は人口10万人あたり1.3件と、2015年の105件から98%以上の減少を記録しました。この変革を主導したのは、2019年に就任したナジブ・ブケレ大統領(44歳)です。2024年には85%の得票率で再選を果たし、国民の圧倒的な支持を得ています。
しかし、この治安改善の背後には、非常事態宣言下での9万人を超える大量逮捕、憲法上の権利の停止、刑務所内での死亡事例など、深刻な人権問題が存在します。本記事では、エルサルバドルの治安改革の実態と、安全と自由のバランスをめぐる国際的な議論を詳しく解説します。
エルサルバドルの治安改革:数字で見る劇的な変化
史上最低の殺人発生率を達成
2025年、エルサルバドルは1月1日から12月31日までに82件の殺人事件を記録し、1日あたり0.22件という史上最低の水準に到達しました。人口10万人あたりの殺人発生率は1.36件で、前年の1.9件からさらに低下しています。
この数字を歴史的に振り返ると、その変化の大きさが際立ちます。2015年には人口10万人あたり105件だった殺人率は、2018年に53.1件、2024年に1.9件と段階的に低下してきました。わずか10年で98%以上の減少を達成したことになります。
中南米における異例の低水準
中米の「北部三角地帯」と呼ばれるエルサルバドル、ホンジュラス、グアテマラは、かつて世界最悪レベルの治安状況にありました。2017年のデータでは、ホンジュラスが人口10万人あたり41.7件、グアテマラが26.1件の殺人率を記録していた中、エルサルバドルは61.8件と最も高い水準でした。世界平均が6.1件、日本が0.2件であることを考えると、その深刻さが理解できます。
現在のエルサルバドルの1.36件という数字は、中南米において異例の低水準です。米国務省は2025年、エルサルバドルに対する渡航警戒レベルを「旅行禁止」から「通常の注意」へと引き下げ、この改善を公式に認めました。
ブケレ大統領の圧倒的な支持率
ナジブ・ブケレ大統領は2019年6月に就任し、「治安を守る」ことを最優先課題に掲げました。2024年の大統領選挙では85%の得票率で再選を果たし、国民の圧倒的な支持を得ています。長年にわたりギャング組織の暴力に苦しめられてきた国民にとって、日常生活の安全を取り戻したブケレ大統領の実績は、何よりも重要な成果として評価されているのです。
非常事態宣言と大量逮捕作戦の実態
2022年3月の転換点
エルサルバドルの治安政策が大きく転換したのは、2022年3月26日から27日にかけてのことでした。わずか2日間で76人(26日に62人、25日に14人)が殺害されるという事態を受け、ブケレ政権は3月27日に非常事態宣言を発令しました。国会はこれを賛成多数で可決し、30日間の期限付きで憲法上の権利の一部を停止する措置が導入されました。
この非常事態宣言は2025年12月23日時点で46回延長されており、3年9カ月にわたって継続しています。当初は一時的な措置として導入されたものが、事実上の恒久的な政策となっているのです。
対象となった犯罪組織
エルサルバドルには3つの主要な犯罪組織が存在していました。「マラ・サルバトゥルチャ(MS13)」、「バリオ18レボルシオナリオス」、「バリオ18スレーニョス」の3組織です。人口700万人の国で、約7万人がこれらの組織のメンバーとされていました。
これらのギャング組織は、長年にわたりエルサルバドルの地域社会を支配し、住民から「みかじめ料」を徴収し、従わない者を殺害するなどの暴力行為を繰り返してきました。多くの市民が日常的に恐怖の中で生活していたのです。
憲法上の権利の停止
非常事態宣言下では、以下の権利が停止されました:
- 結社の自由:集会や組織活動の制限
- 国選弁護人の権利:弁護士へのアクセス制限
- 通信の秘密:治安部隊による通話傍受の許可
- 拘束期間の延長:従来の72時間から15日間へ
- 令状なしの逮捕:ギャング組織のメンバーとみなされた者を令状なしで逮捕可能
これらの措置により、治安部隊は広範な権限を持って取り締まりを実施できるようになりました。
大量逮捕の規模
非常事態宣言の発令から2025年1月29日までに、エルサルバドル当局は84,000人を逮捕したと報告しています。別の統計では、2025年12月23日時点で90,600人以上が逮捕されたとされています。この結果、エルサルバドルは2023年までに世界最高の収監率を記録しました。
最初の30日間(2022年3月27日〜4月25日)だけで、少なくとも17,000人が逮捕されました。この急速かつ大規模な取り締まりが、治安状況を劇的に改善させた主要因とされています。
テロリスト監禁センター(CECOT)
既存の刑務所の収容人員が定員の3倍に達したため、政府は2023年4月に中部テコルカに新しい刑務所「テロリスト監禁センター(CECOT)」を開設しました。4万人の収容能力を持つこの巨大刑務所は、開設から3年足らずで2万人の「凶悪犯」を受け入れましたが、釈放者はいまだ一人もいないとみられています。
この施設は、厳格な管理体制と隔離政策で知られており、ギャング組織の再編成を防ぐための徹底した措置が取られています。
人権問題と国際社会からの批判
恣意的逮捕と誤認拘束
人権擁護団体は、逮捕の多くが恣意的であり、外見や居住地域だけを理由に行われていると批判しています。貧困層や社会から疎外された地域の住民が、ギャング組織との関連を証明する証拠なしに拘束されるケースが多数報告されています。
憲法上の権利が停止されているため、被拘束者は適正な法的手続きを受ける機会が大幅に制限されています。弁護士へのアクセスが制限され、長期間の拘束が認められているため、無実の市民が誤って収監されるリスクが高まっています。
刑務所内での死亡と虐待
中米の人権擁護・調査団体クリストサル(Cristosal)は、2024年にエルサルバドルの刑務所でギャング取締りに関連して261人が死亡したと報告しました。2025年7月までに、この数字は427人にまで増加しています。
報告されている問題には、虐待、医療の拒否、拷問、過密状態、暴力、食料や飲料水などの基本的なサービスへの不十分なアクセスなどが含まれています。歴史的に問題があった刑務所の状況が、大量逮捕によってさらに悪化しているのです。
子どもの刑事責任年齢の引き下げ
ブケレ政権は、ギャング組織への所属が疑われる子どもの刑事責任年齢を16歳から12歳に引き下げる法律を導入しました。12歳から16歳までの子どもが最長10年の実刑判決を受ける可能性があり、国際的な児童保護の基準から大きく逸脱しているとの批判があります。
ジャーナリストや人権活動家への圧力
ギャング組織の事件を報道しただけでジャーナリストが逮捕される可能性があるほか、政府批判を行う市民社会組織や人権擁護団体にも圧力がかかっています。2025年5月には「外国代理人法」が導入され、国際的な資金援助を受けるNGOに30%の税金を課すことになりました。これは、人権活動を抑制する意図があるとみられています。
弁護士ルス・ロペスのように、政府批判を行った人物が拘束される事例も報告されており、言論の自由や市民社会の活動が制限されている状況です。
国際機関からの懸念
国連の複数の専門家は、「延長された非常事態宣言は、公正な裁判を受ける権利の大規模な侵害のリスクを伴う」と警告しています。また、アムネスティ・インターナショナルは、「人権を蹂躙することはエルサルバドルのギャング問題の解決策ではない」と声明を発表しました。
米国議会でも、第118会期において下院と上院の一部議員が、非常事態宣言下での人権侵害の報告について国務長官に懸念を表明しています。
国民の支持と国際的批判のギャップ
なぜ国民は支持するのか
85%という圧倒的な支持率が示すように、エルサルバドル国民の多くはブケレ大統領の治安政策を強く支持しています。その背景には、長年にわたるギャング組織の暴力に苦しめられてきた経験があります。
日常的に「みかじめ料」を要求され、従わなければ殺害される恐怖の中で生活していた市民にとって、自由に外出でき、子どもを安全に学校に送れるようになったことは、何よりも価値のある変化です。多くの国民にとって、抽象的な「憲法上の権利」よりも、具体的な「日常の安全」の方が切実な問題なのです。
「安全」と「自由」のトレードオフ
エルサルバドルの状況は、「安全」と「自由」のバランスをめぐる古典的なジレンマを提起しています。国際社会は人権侵害を批判していますが、その国際社会の人々は、エルサルバドル国民が経験してきたレベルの日常的暴力を経験していません。
一方で、非常事態宣言が3年以上継続し、恒久化する傾向にあることは、一時的な緊急措置が常態化するリスクを示しています。誤認逮捕された無実の市民、刑務所内で死亡した人々、その家族にとって、治安改善は何の慰めにもなりません。
「エルサルバドル・モデル」の拡大
ブケレ大統領の成功は、中南米の他の国々にも影響を与えています。ギャング組織の暴力に苦しむ国々で、「エルサルバドル・モデル」を導入しようとする動きが見られます。巨大刑務所の建設計画が複数の国で進んでおり、強権的な治安政策への傾斜が広がっています。
しかし、このモデルが他の国でも同様の成果を上げるかは不明です。エルサルバドルは人口700万人の小国であり、ブケレ大統領のような強いリーダーシップと国民の支持があってこそ実現した政策です。より大きく複雑な国々で同じアプローチが機能するとは限りません。
注意点と今後の展望
持続可能性への疑問
現在の治安改善は、9万人以上を収監し続けることで維持されています。これらの人々を長期的にどう処遇するのか、明確な出口戦略は示されていません。釈放のプロセス、社会復帰支援、冤罪被害者の救済など、解決すべき課題は山積しています。
また、非常事態宣言を解除した場合に治安が維持できるのかも不透明です。恒久的に憲法上の権利を停止し続けることは、民主主義国家としての正当性を損ないます。
経済的コストと社会的影響
9万人以上を収監し続けるコストは莫大です。また、労働人口の一部が刑務所に収監されていることは、経済活動にも影響を与えます。誤認逮捕により生計手段を失った家族も多く、社会的な傷跡は深いと考えられます。
制度的改革の必要性
真に持続可能な治安改善のためには、警察・司法制度の改革、貧困対策、教育機会の拡大など、根本的な社会問題への取り組みが不可欠です。強権的な取り締まりだけでは、次世代のギャング組織が生まれる土壌を取り除くことはできません。
日本との比較から見える課題
エルサルバドルの殺人発生率1.3件は、日本の約0.2件と比較すると依然として6.5倍高い水準です。ブケレ大統領自身も、人口10万人あたり1件未満という目標を掲げていますが、そのレベルに到達するには、取り締まりだけでなく、社会全体の安全文化の醸成が必要です。
日本の低い犯罪率は、厳しい刑罰だけでなく、社会的結束、教育水準、経済的機会、効果的な警察活動など、複数の要因の組み合わせによって実現されています。エルサルバドルが真の意味で安全な社会を実現するには、こうした多面的なアプローチが求められます。
まとめ
エルサルバドルのブケレ大統領による治安改革は、殺人発生率を98%以上減少させるという劇的な成果を上げました。長年ギャング組織の暴力に苦しめられてきた国民にとって、日常の安全を取り戻したことは計り知れない価値があり、85%という圧倒的な支持率がそれを物語っています。
しかし、この成果は9万人以上の大量逮捕、憲法上の権利の停止、刑務所内での死亡事例など、深刻な人権問題を伴っています。国際社会からの批判と国民の支持のギャップは、「安全」と「自由」のバランスをめぐる根本的な問いを投げかけています。
エルサルバドルの経験は、治安政策における成功の定義を考え直すきっかけを与えてくれます。短期的な犯罪率の低下だけでなく、人権の尊重、法の支配、社会的公正を含む、より包括的な安全の概念が必要です。今後、エルサルバドルが持続可能で公正な社会を実現できるかどうかは、この難しいバランスをどう取るかにかかっています。
参考資料:
- El Salvador Homicide Rate Hits Historic Low Numbers in 2025
- Salvadoran gang crackdown - Wikipedia
- The Human Cost of El Salvador’s Gang Crackdown - New Lines Magazine
- World Report 2024: El Salvador | Human Rights Watch
- エルサルバドル:非常事態宣言下の深刻な人権侵害 : アムネスティ日本
- El Salvador’s State of Exception and U.S. Interests | Congress
- “The World’s Coolest Dictator”: Bukele’s Gang Violence Crackdown in El Salvador | Harvard International Review
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