ロシア通商代表部元職員を書類送検、日本で産業スパイ活動か
はじめに
2026年1月20日、警視庁公安部は在日ロシア通商代表部の元職員(30代)と、国内の工作機械メーカー関連会社の元社員(30代)を、不正競争防止法違反(営業秘密開示)の疑いで書類送検したと発表しました。
元職員はロシア対外情報庁(SVR)の科学技術情報収集部門「ラインX」のメンバーとみられ、2025年3月にすでに帰国しています。今回の事件は、口頭による営業秘密の漏洩を立件した異例のケースであり、日本における産業スパイ活動の実態と、その対策の課題を浮き彫りにしています。
事件の概要
書類送検の内容
警視庁公安部によると、2人の書類送検容疑は2024年11月と2025年2月に、日本人元社員が勤務していた工作機械関連会社の新商品に関する開発情報などの営業秘密を、口頭で不正に開示した疑いです。
被害を受けたのは関東地方に本社を置く工作機械メーカーの関連会社で、同社が保有する先端技術には軍事転用可能なものも含まれていたとされます。警視庁は、そうした情報が流出する前の段階で摘発することが重要と判断し、今回の立件に踏み切りました。
接触の手口
ロシア人元職員は、道を聞くふりをして日本人元社員に接触したとされています。その後、関係を深め、定期的に会うようになりました。
2人は連絡先を交換せず、毎回次に会う日時と場所を決めるという手法を取っていました。これはスパイ活動の発覚を防ぐための古典的な手口です。日本人元社員は情報提供の見返りとして、総額約70万円を受け取っていたとみられています。
捜査の経緯
警視庁公安部が通商代表部職員の不審な動きを把握したことで事件が発覚しました。警視庁は今月9日、外務省などを通じて在日ロシア大使館に元職員の出頭を要請しましたが、回答はありませんでした。元職員はすでに2025年3月にロシアに帰国しており、起訴は困難な状況です。
ロシア対外情報庁(SVR)の科学技術スパイ活動
SVRとは
ロシア対外情報庁(SVR)は、旧ソ連のKGB第一総局を前身とする対外情報機関です。1991年のソ連崩壊に伴い設立され、現在もロシアの対外諜報活動の中核を担っています。職員数は約1万人と推定されています。
SVRの任務は政治・経済・科学技術など広範な対外情報収集ですが、近年は特に先端技術の獲得に力を入れています。2022年6月、プーチン大統領はSVR本部を訪問し、「産業・技術分野の発展と防衛力の強化を支援することが優先すべき任務だ」と述べ、情報収集活動の活発化を指示しました。
「ラインX」の役割
SVRの日本での活動は、専門分野ごとにチームに分かれています。科学技術情報を収集する「ラインX」のほか、政治情報を担当する「ラインPR」、非合法スパイを支援する「ラインN」などがあります。
今回書類送検された元職員は「ラインX」のメンバーとみられ、工作機械分野の先端技術を標的にしていたと考えられます。ラインXのメンバーは専門知識に長け、日本語も堪能とされています。
標的となる技術分野
ロシアが日本から狙う技術には、量子技術、人工知能(AI)、半導体、光学機器、宇宙開発、通信インフラ(5G)などがあります。工作機械も重要な標的の一つで、特にCNC(コンピュータ数値制御)機械は軍事品の生産に不可欠です。
実際、日本のツガミ社製の精密工作機械300台以上が中国企業を経由してロシアに流出し、武器製造に使用されていたことが2025年に発覚しています。工作機械の技術情報は、こうした違法調達の補完として重要性を持つと考えられます。
過去の類似事件と日本の課題
2020年ソフトバンク事件
2020年1月には、ソフトバンクの元社員がロシア通商代表部職員に機密情報を提供した事件が発覚しました。元社員は不正競争防止法違反で逮捕・起訴され、懲役2年執行猶予4年、罰金80万円の有罪判決を受けました。
この事件でもロシア側の職員は書類送検されましたが、すでに出国しており不起訴となっています。今回の事件と同じパターンであり、ロシア側関係者の訴追が困難という構造的問題が繰り返されています。
東芝機械ココム違反事件
冷戦期の1987年には、東芝機械がノルウェーのコングスベルグ社と共謀し、CNC工作機械をソ連に違法輸出した事件が発覚しました。この機械はソ連の潜水艦スクリュー製造に使用され、静粛性が大幅に向上したとされています。
この事件は日米関係に深刻な影響を与え、工作機械の輸出規制強化につながりました。現在もロシアによる先端技術の獲得努力は続いており、その手法が制裁逃れと産業スパイの両面で展開されていることがわかります。
スパイ防止法の不在
日本にはいわゆる「スパイ防止法」が存在しません。そのため、スパイ活動を直接取り締まることができず、窃盗罪や不正競争防止法違反といった他の法律で対応せざるを得ない状況です。
元公安警察関係者によると、「秘密情報を受け渡した現行犯か、それに近い状態で摘発する必要がある」とのことで、捜査のハードルは高いとされています。今回のような口頭での情報漏洩を立件した事例は異例であり、公安部の地道な捜査活動の成果といえます。
ロシアスパイの接触手法
偽装と人たらし
ロシアのスパイは、偶然を装った接触から関係を構築する手法を得意としています。具体的には、国際会議や学会の会場で隣席に座り込む、展示会で企業ブースの担当者に声をかける、ビジネス街の飲食店で話しかけるといった方法があります。
今回の事件では「道を聞くふり」で接触したとされており、日常的な場面から関係が始まったことがわかります。最初は些細な会話から始まり、徐々に信頼関係を築いて情報提供に誘導していくのがスパイの常套手段です。
約120人が活動か
日本国内では約120人のロシア人スパイが活動しているとの推計があります。彼らの多くは在日ロシア大使館員や通商代表部員といった外交官の身分で入国し、外交特権による不逮捕特権を享受しながら情報収集活動を行っています。
ただし、2022年のウクライナ侵攻後、日本政府は8人のロシア外交官を追放しており、情報活動の一部には影響が出ているとみられます。
注意点・展望
企業の対策強化が急務
今回の事件は、日本企業が保有する先端技術がロシアのスパイの標的になっていることを改めて示しました。特に、工作機械のように軍事転用可能な技術を持つ企業は、情報管理の徹底が求められます。
従業員への教育も重要です。不審な接触があった場合の報告体制、機密情報の取り扱いルールの周知、そして「偶然の出会い」を装う手口への警戒が必要です。
法整備の議論
スパイ防止法の必要性については、以前から指摘されています。2014年に施行された特定秘密保護法は一定の前進でしたが、対象が限定的であり、民間企業の営業秘密を狙うスパイ活動には十分に対応できていません。
経済安全保障の観点から、より包括的な法整備の議論が今後進む可能性があります。
ウクライナ戦争との関連
ロシアがウクライナ侵攻を続ける中、西側諸国の制裁によりロシアは先端技術の入手が困難になっています。このため、スパイ活動や制裁逃れによる技術獲得の重要性が高まっていると考えられます。
日本企業の技術が間接的にロシアの軍事力強化に利用されることがないよう、輸出管理と情報管理の両面での対策が求められています。
まとめ
今回のロシア通商代表部元職員の書類送検は、日本における産業スパイ活動の実態を明らかにする重要な事例です。口頭での営業秘密漏洩という立件が困難なケースを摘発したことは、警視庁公安部の捜査能力を示すものです。
一方で、ロシア側関係者がすでに出国しており訴追できないという構造的な問題は解消されていません。スパイ防止法の不在という根本的な課題も残されています。
企業は自社の技術が狙われている可能性を認識し、情報管理体制を強化する必要があります。また、政府レベルでは経済安全保障の観点から法整備の議論を進めることが求められます。
参考資料:
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