「のれん」会計ルール見直しに日本製鉄が異論
はじめに
企業会計基準委員会(ASBJ)は2026年1月20日、M&A(合併・買収)で生じる「のれん」の会計ルールを巡る7回目の公聴会を開催しました。この場で日本製鉄の松本道彰決算室長は、「のれんは時間の経過とともに減耗する。本来は償却すべき性質のものだ」と述べ、日本基準でのれんを非償却とする案を「支持しない」との立場を明確にしました。
「のれん」の会計処理は、日本企業のM&A戦略や国際競争力に直結する重要な論点です。現在、日本基準では最大20年で定期償却することが求められていますが、経済界からは国際会計基準(IFRS)と同様に非償却を認めるべきだとの声が上がっています。
本記事では、のれんの会計処理を巡る議論の背景と、今回の公聴会で示された論点について解説します。
「のれん」とは何か
M&Aで生まれる無形の資産価値
「のれん」とは、企業買収の際に支払う買収価格が、被買収企業の純資産(資産から負債を差し引いた額)を上回る場合に計上される差額です。例えば、純資産100億円の企業を150億円で買収した場合、差額の50億円が「のれん」として資産計上されます。
この差額は、財務諸表に表れない企業価値を反映しています。具体的には、ブランド力、顧客基盤、技術力、優秀な人材、営業ノウハウといった無形の競争優位性が含まれます。これらは将来の収益獲得に貢献すると期待されるため、買収者は純資産を上回るプレミアムを支払うのです。
日本基準とIFRSの違い
のれんの会計処理には、大きく分けて「償却」と「非償却」の2つのアプローチがあります。
日本の会計基準(J-GAAP)では、のれんは最大20年以内の期間で定額法により規則的に償却します。毎年一定額を費用として計上するため、M&Aを実施した企業は買収後、継続的に利益が圧迫されることになります。
一方、国際会計基準(IFRS)や米国会計基準(US-GAAP)では、のれんの定期償却は行いません。代わりに、少なくとも年1回の「減損テスト」を実施し、のれんの価値が著しく下落した場合にのみ減損損失を計上します。
日本基準見直しの議論
経済界からの強い要望
2025年7月、経済同友会、新経済連盟、日本ベンチャーキャピタル協会など民間13団体に加え、スタートアップ有志35社、企業経営者138名が、財務会計基準機構(FASF)に対してのれんの会計ルール見直しを求める提案を提出しました。
提案の主な内容は2点です。第一に、のれんの償却だけでなく非償却も認める「選択制」の導入。第二に、のれん償却費の計上場所を営業費用から営業外費用または特別損失に変更することです。
この背景には、日本企業の国際競争力への懸念があります。グローバルで見ると、上場企業にのれんの定期償却を求めている国は日本とスイスのみです。IFRS採用企業は償却負担がないため、同じ買収案件でより高い買収価格を提示できます。日本基準を採用する企業は、のれん償却による利益減少を考慮せざるを得ず、買収競争で不利になるケースがあるとされています。
政府も見直しを後押し
政府の規制改革推進会議も、のれん非償却を認める方向での制度変更を検討しています。会計上の負担を軽減することで、スタートアップなどのM&Aによる成長を後押しし、企業の新陳代謝を促進する効果が期待されています。
特にスタートアップ買収においては、被買収企業の純資産が小さく、将来の成長期待を反映した高いプレミアムが付くことが多いため、のれんの金額が大きくなりがちです。日本基準の償却ルールがM&A推進の障害になっているとの指摘は、スタートアップ・エコシステムの関係者を中心に根強くあります。
日本製鉄幹部の反対意見
「のれんは本来償却すべき」
こうした見直し議論に対し、日本製鉄の松本道彰決算室長は公聴会で明確に異論を唱えました。「のれんは時間の経過とともに減耗する。本来は償却すべき性質のものだ」との見解を示し、日本基準でのれんを非償却とする案を「支持しない」と表明しました。
松本氏はまた、会計基準の改正について「経済活動の実態に基準がそぐわなくなった場合には必要」との考えを示しつつも、今回の提案がその条件を満たすかどうかについては慎重な姿勢を示しました。
償却派の論拠
のれんの定期償却を支持する立場からは、いくつかの論拠が挙げられています。
第一に、買収時ののれんは時間とともに価値が減少し、企業自身の努力で生み出した「自己創設のれん」に置き換わっていくという考え方です。日本基準では、定期的な償却により、自己創設のれんが実質的に資産計上されることを防ぐ意義があるとされています。
第二に、非償却方式では減損損失が発生するまで業績への影響が見えにくく、経営判断を誤らせるリスクがあるという懸念です。定期償却であれば、買収の投資効果を毎期確認しながら経営判断を行うことができます。
のれん減損の教訓
巨額減損の事例
非償却方式を採用するIFRS適用企業でも、のれんの減損リスクは存在します。むしろ、減損が発生した際のインパクトが大きくなる傾向があります。
電通グループは2024年12月期の連結決算で、過去最大となる1,921億円の最終赤字を計上しました。主因はのれんの減損で、海外事業で競争力の低い事業を抱え込んだことが背景にあります。
日本郵政は2015年にオーストラリアの物流大手トール・ホールディングスを6,200億円で買収しましたが、2017年3月期に約4,000億円ののれん減損を計上。最終的に2020年に同社を売却し、国際物流事業から撤退する事態となりました。
減損を防ぐための取り組み
のれん減損のリスクを軽減するためには、買収前のデューデリジェンス(企業調査)の徹底が重要です。財務面だけでなく、事業の将来性やシナジー効果を厳格に見極める必要があります。
また、買収後の経営統合プロセス(PMI:Post Merger Integration)の成否が、のれんの価値維持を左右します。期待したシナジーを実現し、買収した事業の収益力を高める努力が不可欠です。
注意点と今後の展望
ASBJの慎重な姿勢
ASBJが実施している公聴会は、通常の審議とは異なり、委員会として判断や評価を行うものではありません。関係者からの意見聴取の結果を企業会計基準諮問会議に報告することが目的です。
意見聴取の対象は、提案に賛同する関係者だけでなく、異なる見解を持つ関係者も含まれます。日本製鉄のような反対意見も含め、多角的な視点から議論を深めることが求められています。
2027年度までに結論か
経済界からの提案では、のれん非償却の選択制導入について2027年度までに、償却費の計上区分変更について2026年度までに結論を出すことが求められています。
ただし、会計基準の変更は企業の財務諸表の比較可能性に影響を与えるため、慎重な検討が必要です。償却と非償却が混在する選択制を導入した場合、企業間の業績比較が困難になるという懸念もあります。
まとめ
ASBJの公聴会で日本製鉄幹部が示した「のれんは本来償却すべき」との見解は、会計基準見直し議論に重要な一石を投じました。国際競争力の観点からのれん非償却を求める声がある一方で、定期償却の意義を重視する立場も存在します。
のれんの会計処理は、M&A戦略や企業業績に直結する重要な論点です。今後の議論の行方が、日本企業の経営判断や国際的な買収競争にどのような影響を与えるのか、注目が集まっています。
参考資料:
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