ガースナー氏の遺言が示す日本企業変革への処方箋
はじめに
2025年12月27日、IBMを瀕死の状態から復活させた伝説的経営者ルイス・ガースナー氏が83歳で死去しました。彼が著書『巨象も踊る』で示した企業変革の教訓は、今まさに日本企業が直面している課題と深く共鳴しています。
2026年1月に開催された世界最大級のテクノロジー見本市「CES 2026」では、日本企業の参加数が約100社にとどまる一方、韓国は700社超、中国は900社超と圧倒的な差を見せつけました。かつてエレクトロニクス大国として世界をリードした日本の存在感は、なぜここまで薄れてしまったのでしょうか。
本記事では、ガースナー氏のIBM再建から得られる教訓と、日本企業が今こそ学ぶべき変革のポイントについて詳しく解説します。
ガースナー氏によるIBM再建の軌跡
瀕死の巨象を引き受けた外部経営者
1993年、IBMは創業以来最大の危機に直面していました。メインフレーム(大型コンピュータ)の成功に安住し、パーソナルコンピュータへの時代変化に対応できなかったIBMは、1991年から1993年までの3年間で累積赤字150億ドルという壊滅的な状況に陥っていました。
この絶望的な状況の中、IBM史上初めて外部から招かれたCEOがルイス・ガースナー氏でした。アメリカン・エキスプレスやRJRナビスコで経営経験を積んだガースナー氏は、IT業界の経験がないにもかかわらず、この巨大企業の再建を引き受けました。
「ビジョンより実行」という経営哲学
就任直後、ガースナー氏が発した言葉は衝撃的でした。「現在のIBMに最も必要ないものがビジョンだ。必要なのは実効性の高い戦略だ」。この発言は、理念や長期計画に偏重しがちな大企業経営への痛烈な批判でした。
彼は「速く動く。間違えるとしても、動きが遅すぎたためのものより速すぎたためのものの方がいい」という信条のもと、矢継ぎ早に改革を実行しました。組織階層を軽視し、「会議には地位や肩書にかかわらず、問題解決に役立つ人を集める」という実力主義を徹底したのです。
ビジネスモデルの根本的転換
ガースナー氏の最大の功績は、IBMのビジネスモデルを根本から転換したことです。ハードウェアの「箱売り」から、顧客の課題を解決するITソリューション・サービス事業へと軸足を移しました。
この転換により、IBMは就任からわずか5年で60億ドル以上の利益を計上する企業へと復活しました。2002年の退任時には、IBMは完全に生まれ変わった企業となっていたのです。
企業文化こそが経営そのもの
ガースナー氏が到達した究極の結論
『巨象も踊る』の中で、ガースナー氏は企業文化について次のように述べています。「IBMに来る以前に聞かれればたぶん、企業文化は企業を成り立たせ成功に導く要因のひとつだと答えただろう。IBMでの約十年間に、私は企業文化が経営のひとつの側面などではないことを理解するようになった。一つの側面ではなく、経営そのものなのだ」。
この言葉は、戦略や技術以上に企業文化の変革が重要であることを示しています。IBMには当時、複雑な組織階層、既得権益の横行、「IBM語」に代表される閉鎖的な文化が根付いていました。これらを打破することこそが、真の改革だったのです。
終身雇用と服装規定の撤廃
ガースナー氏は、IBMの伝統として定着していた終身雇用制度や厳格な服装規定を次々と廃止しました。これは単なる制度変更ではなく、「過去の成功体験に縛られない」というメッセージでした。
長年の文化や価値観が組織を腐らせていく現実を目の当たりにしたガースナー氏は、聖域なき改革を断行したのです。この経験が、「企業文化は経営そのもの」という結論へと彼を導きました。
CES 2026が映し出す日本企業の現在地
数字が示す存在感の低下
2026年1月に開催されたCES 2026では、日本企業の参加数は約100社にとどまりました。これに対し、韓国は700社超、中国は900社超と、圧倒的な差がついています。
特にスタートアップ分野では、韓国が約600社と米国以外で最多の参加数を誇り、政府やサムスン電子など大手企業の積極的な後押しを受けています。一方、日本のスタートアップ出展は約60社程度と、韓国の10分の1に過ぎません。
アワード受賞でも韓国が躍進
CES Innovation Awardsの受賞組織数でも、韓国の躍進は顕著です。2020年から2025年にかけて韓国の受賞数は約6.3倍に急増し、2025年には120件と米国を凌駕して単独トップの座を確立しました。
日本企業も質の高い出展を行い、アワード受賞数では中国と同程度を維持していますが、「量」と「質」の両面で存在感を示す韓国との差は明らかです。ジェトロが支援するJapanパビリオン出展企業31社のうち4社がアワードを受賞したものの、国際競争の中での日本の位置づけは厳しいものがあります。
日本企業が抱える構造的課題
デジタル競争力ランキングの凋落
スイスの国際経営開発研究所(IMD)が発表する「世界デジタル競争力ランキング」において、日本は67カ国中31位に位置しています。2019年以降、順位は下降傾向が続いており、特に「ビジネスの俊敏性」「上級管理職の国際経験」「デジタル技術スキル」の3項目は67位と最下位です。
また、IMDの「世界競争力年鑑」2023年版によれば、「企業の意思決定速度」「機会と脅威への素早い対応」「新たな機会への柔軟性と適応性」はいずれも60位台と最下位グループに沈んでいます。まさに、ガースナー氏がIBMで打破しようとした「動きの遅さ」が、日本企業全体に蔓延しているのです。
レガシーシステムと「2025年の崖」
経済産業省が2018年に公表した「DXレポート」では、老朽化した基幹システム(レガシーシステム)の複雑化・ブラックボックス化により、2025年以降に年間最大12兆円の経済損失が発生する可能性が指摘されていました。
この「2025年の崖」問題は、単なるシステム更新の課題ではありません。DXの本質を「業務効率化のためのIT活用」と狭く捉え、ビジネスモデル自体の変革という本質を見失っている日本企業の姿勢を象徴しています。総務省の調査では、DX推進の目的を「生産性向上」と回答した企業が約75%に達する一方、「新規ビジネスモデル創出」と回答した企業は36%にとどまっています。
人材不足と高度人材の軽視
経済産業省の調査によれば、2030年には最大約79万人のIT人材不足が見込まれています。しかし問題は単なる数の不足ではありません。
シリコンバレーでは米国、中国、インドなどの研究者が目立つ中、日本人の存在感は薄いのが現状です。博士課程修了者レベルの高い専門性を理解するリーダーが企業内部に少なく、高度人材を軽視する経営姿勢が日本企業の長期的な競争力低下を招いています。
ガースナー氏の遺言から学ぶべきこと
「マーケットイン志向」への転換
日本の製造業、特にエレクトロニクス分野の凋落には明確な理由があります。1980年代まで最先端の技術力を有していた日本メーカーは、「マーケットイン志向」が浸透せず、オーバースペックな製品を世に送り出すことに終始しました。
技術力はあるもののビジネスモデルの構築力が乏しく、自社の製品規格を標準化することを軽視する風潮がありました。ガースナー氏がIBMで実践したのは、まさにこの逆でした。顧客の課題を起点としたソリューション提供へとビジネスモデルを転換したのです。
スピードと実行力の重視
「速く動く」というガースナー氏の信条は、現在の日本企業に最も欠けているものかもしれません。意思決定の遅さ、リスク回避志向、前例踏襲主義は、変化の激しいデジタル時代において致命的なハンディキャップとなっています。
韓国や中国の企業がコモディティ化に伴う価格競争への対応で一斉に増産投資に踏み切る中、日本企業は出遅れました。2009年度時点で、国内大手半導体メーカーの研究開発費約1,500億円に対し、韓国大手は約6,790億円と約4.5倍の開きがありました。この投資姿勢の差が、現在の競争力格差につながっています。
注意点・展望
変革は一朝一夕では実現しない
ガースナー氏のIBM改革も、一夜にして成し遂げられたものではありません。就任当初、彼がまず取り組んだのは会社を安定させ、社員や顧客に「IBMは復活できる」と信じてもらうことでした。
日本企業のDX推進に関する調査でも、成果を実感している企業は「まず3年継続すること」の重要性を指摘しています。特に人・組織に重点を置いた包括的なアプローチをとっている企業ほど、時間はかかるものの十分な成果を得ているのです。
2026年以降の競争環境
2026年以降、米国などの企業はAI武装でますます強靭さを増すと予測されています。生成AIを活用した徹底的な合理化や事業の組み換えが進む中、日本企業が「失われた30年」をさらに延長させるのか、それとも変革を遂げるのかが問われています。
上場企業の半数以上が「5年後以降は競争力を維持できない」と回答しているという調査結果は、危機感の表れであると同時に、変革への意識が芽生えている証でもあります。
まとめ
ルイス・ガースナー氏がIBMで実践した改革は、「企業文化は経営そのもの」という究極の教訓を私たちに残しました。瀕死の巨象を踊らせた彼の経営哲学は、スピード重視、実行力、そして顧客起点のビジネスモデル転換でした。
CES 2026で明らかになった日本企業の存在感低下は、デジタル競争力ランキングの凋落、レガシーシステムの問題、人材不足といった構造的課題の表れです。しかし、これらは裏を返せば伸びしろがあるということでもあります。
ガースナー氏の遺言を胸に刻み、「まず実行」の姿勢で変革に踏み出す日本企業が増えることを期待します。巨象も踊れるのです。日本企業が再び世界で存在感を示すためには、今この瞬間から動き出すことが求められています。
参考資料:
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