イノベーションと進歩の違いとは?楠木建氏が警鐘を鳴らす革新の本質
はじめに
「イノベーションが必要だ」というかけ声は、あらゆる業界で日常的に聞かれるようになりました。しかし、経営学者の楠木建氏は「イノベーションの敵は進歩にある」という一見矛盾した指摘を行っています。
多くの企業がイノベーションを追求しているつもりでも、実際には「進歩」を目指しているに過ぎないケースが少なくありません。この混同こそが、日本企業がイノベーションを実現できない根本的な原因だと楠木氏は警鐘を鳴らしています。
本記事では、イノベーションと進歩の本質的な違いを明らかにし、なぜ企業が革新を目指しながら逆方向に走ってしまうのか、その構造的な問題と対策について解説します。
イノベーションと進歩の決定的な違い
進歩とは「価値次元の連続的改善」
楠木建氏によれば、進歩とは価値の次元において連続しているものです。デジタルカメラの画質が向上すること、スマートフォンがより薄く軽くなること、電気自動車の航続距離が伸びること。これらはすべて「進歩」であって、イノベーションではありません。
進歩は、既存の価値基準の延長線上で「もっと良くなる」ことを意味します。消費者が「もっと綺麗な写真を撮りたい」「もっと長く走りたい」と望む声に応えることは、確かに重要な企業活動ですが、それはあくまで現状の価値次元における改善に過ぎません。
イノベーションとは「価値次元の非連続的変化」
一方でイノベーションとは、ピーター・ドラッカーの言葉を借りれば「パフォーマンスの次元が変わること」です。つまり「何が良いか」という基準そのものが変わることを意味します。
この概念を最初に提唱したのは経済学者ヨーゼフ・シュンペーターでした。シュンペーターはイノベーションを「新結合の遂行」と定義し、既存の要素を組み合わせて新しい価値を創造することがその本質だと説きました。馬車から汽車への変化のような、非連続的な発展こそが創造的破壊であり、イノベーションの特徴なのです。
具体例で理解する両者の違い
例えば、フィルムカメラからデジタルカメラへの移行はイノベーションでした。「写真を化学反応で記録する」という価値次元から「デジタルデータとして保存する」という全く異なる価値次元への転換だったからです。
しかし、デジタルカメラの画素数が1000万から2000万、さらに4000万へと増えていく過程は進歩です。「画質が良い」という同じ価値次元の中での改善だからです。
なぜ企業は進歩に走ってしまうのか
顧客の声が進歩を求める構造
企業がイノベーションと称して進歩を追求してしまう背景には、構造的な理由があります。市場や顧客が明示的に求める価値は、通常、現状の価値次元を逸脱することがありません。
顧客は「もっと速く」「もっと安く」「もっと便利に」という、現在の延長線上でしかニーズを語れません。株主もまた、見える次元の数字しか見ようとしません。売上高、利益率、シェアといった既存の指標での改善を求めます。
組織の正当性確保が革新を阻む
さらに、経営層は意思決定の組織的正当性を確保しようとします。「なぜその投資をするのか」「どれくらいのリターンが見込めるのか」を説明するとき、既存の価値次元に基づく進歩は説明しやすいのです。
一方で「何がよいか」そのものが変わってしまうイノベーションは、従来の評価軸では測定できません。そのため、社内で反対意見が出やすく、承認を得ることが困難になります。
大企業病とイノベーションの阻害
日本企業においては、いわゆる「大企業病」がイノベーションを阻害する大きな要因となっています。業績が安定している企業ほど危機感が欠如し、あえて新たなチャレンジをする必要性を感じなくなります。
官僚主義が横行する組織では、顧客ではなく上司の顔をうかがって行動することが多くなります。マニュアルやルールへの過度な固執、意思決定の遅さ、リスク回避の傾向は、すべてイノベーションの芽を摘んでしまいます。
日本経済の成熟こそがチャンス
逆説的な好機としての停滞
楠木氏は興味深い指摘をしています。日本経済の成熟と停滞こそが、イノベーションの好機になり得るというのです。
高度成長期のように右肩上がりの時代には、進歩を続けるだけで業績は伸びました。しかし市場が成熟し、既存の価値次元での競争が行き詰まった今こそ、価値次元そのものを変えるイノベーションが求められています。
コモディティー化の脅威に直面している状況は、裏を返せば、新しい価値次元を創造した企業が大きく飛躍できる環境でもあります。
個人の独創を組織が支持できるか
イノベーションの実現において鍵となるのは、個人の独創的なアイデアを組織が支持できるかどうかです。イノベーションの種は、多くの場合、組織の周縁部にいる個人から生まれます。
しかし従来の評価軸では理解しにくいアイデアは、組織の中で淘汰されやすい傾向があります。「前例がない」「リスクが高い」「効果が測定できない」といった理由で、革新的なアイデアは葬り去られてしまいます。
真のイノベーションを実現するために
シュンペーターが示した5つの道
シュンペーターは、イノベーションを5つの類型に分類しました。新しい製品の創出、新しい生産方法の導入、新しい市場の開拓、新しい資源の獲得、そして新しい組織の実現です。
重要なのは、これらが必ずしも画期的な技術発明を必要としないことです。既存の技術や資源を新しい方法で組み合わせることも、立派なイノベーションになり得ます。
ドラッカーの7つの機会
ドラッカーは、イノベーションのほとんどが7つの機会から生まれることを発見しました。予期せぬ出来事、ギャップ、ニーズ、産業構造の変化、人口構造の変化、意識の変化、そして発明発見です。
これらの機会は、変化を注意深く観察することで見つけることができます。ドラッカーによれば、企業家とは「変化を探し、変化に対応し、変化を機会として利用する」者なのです。
組織文化の変革が不可欠
イノベーションを生み出す組織になるためには、文化の変革が不可欠です。多様な価値観を取り入れるダイバーシティの促進、オープンなコミュニケーション文化の醸成、そして結果ではなくチャレンジそのものを評価する仕組みの構築が求められます。
ホンダの「ワイガヤ」のように、自由な意見交換が促進される環境を整えることで、イノベーションの芽が育つ土壌を作ることができます。
まとめ
楠木建氏が指摘する「イノベーションの敵は進歩」という逆説は、多くの日本企業が直面している課題の本質を突いています。既存の価値次元の中で「もっと良く」を追求する進歩と、価値次元そのものを変えるイノベーションは、根本的に異なる概念です。
顧客の声に応え、株主の期待に応え、組織内の承認を得ようとすればするほど、企業は進歩の方向に走りがちです。しかしそれでは、コモディティー化の波に飲み込まれてしまいます。
日本経済の成熟と停滞を、進歩の限界として捉えるか、イノベーションの好機として捉えるか。その認識の違いが、これからの企業の命運を分けることになるでしょう。
参考資料:
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