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by nicoxz

労務費転嫁は公的統計で進む、中小企業が値上げを通す実務の核心

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はじめに

中小企業の賃上げで最も難しい論点は、原材料費ではなく労務費です。材料費は市況や仕入れ伝票で説明しやすい一方、賃金は「自社の都合」と受け止められやすく、取引先に値上げの根拠として示しにくいからです。中小企業庁が公表した2025年9月時点のフォローアップ調査でも、コスト全体の価格転嫁率は53.5%だったのに対し、労務費の転嫁率は50.0%にとどまりました。

それでも、ここ1年で交渉環境は確実に変わっています。公正取引委員会の労務費転嫁指針は、発注者が説明や根拠資料を求める場合は公表資料に基づくものとし、受注者も根拠資料として公表資料を用いるよう求めています。つまり、「感覚的に苦しいから上げてほしい」ではなく、「誰でも確認できる数字を共通言語にする」ことが、新しい交渉の基本になりました。本稿では、公的統計をどう使えば要求額が通りやすくなるのかを、制度と実務の両面から整理します。

公的統計が効く交渉構造

「言い値」を避ける共通物差し

労務費転嫁で公的統計が強いのは、発注者と受注者が同じ土俵で話せるからです。公正取引委員会の指針は、発注者に対して「説明・資料を求める場合は公表資料とすること」を求め、受注者にも「根拠資料としては公表資料を用いること」を促しています。これは、相手の社内事情を細かく開示しなくても、第三者が確認できるデータを使って価格協議できるようにする考え方です。

この発想は、実務ではかなり有効です。発注者が嫌うのは、値上げ要請そのものよりも、根拠が曖昧で社内決裁に乗せにくい提案です。自社の賃上げ方針だけを示しても、「なぜその率なのか」「業界全体でもそうなのか」が残ります。ところが、最低賃金、春闘結果、公共工事設計労務単価、消費者物価指数のような公表データを使えば、担当者は上司や調達部門に説明しやすくなります。取引先が納得しやすいというより、正確には「社内で通しやすくなる」のです。

公正取引委員会が2026年にまとめた労務費転嫁指針の関連ページでも、この問題意識は明確です。中小企業は日本の雇用の7割を占める一方、賃上げ原資の確保には取引環境の整備が欠かせないと整理しています。価格転嫁は個別企業の営業努力だけでなく、サプライチェーン全体のルール変更として扱われ始めたと言えます。

労務費転嫁率50.0%の現実

もっとも、制度が整えば自動的に価格転嫁できるわけではありません。中小企業庁の2025年9月フォローアップ調査では、労務費の転嫁率は50.0%で、原材料費55.0%、エネルギーコスト48.9%という結果でした。労務費は初めて50%に到達したとはいえ、なお半分しか転嫁できていない計算です。

調査の内訳を見ると、交渉環境が改善している面もあります。発注側から申し入れがあり価格交渉が行われた割合は34.6%に上昇し、価格交渉が行われた企業のうち7割超が労務費も議題になったと回答しました。さらに、全額転嫁に至らなくても、発注企業から「納得できる説明があった」とした企業は約6割でした。ここから分かるのは、価格そのものと同じくらい、交渉過程の透明性が重要だということです。

2026年3月の価格交渉促進月間は、取適法と振興法の施行後では初めての実施でした。中小企業庁は、一方的な代金決定の禁止などが盛り込まれた新制度の下で、発注者に誠実な協議を求めています。制度面の追い風は確かにありますが、現場では「どの数字を持っていくか」で結果が大きく変わります。公的統計が効くのは、まさにこの局面です。

要求額を作る実務手順

使うべき統計の優先順位

では、どの統計を使えばよいのでしょうか。第一に見るべきは、賃上げの外部基準です。2026年3月23日に連合が公表した第1回回答集計結果では、全体の賃上げ率が5.26%、中小組合・300人未満では5.05%でした。人材確保のために5%前後の賃上げ圧力が中小企業にも及んでいることを示す数字として使えます。

第二に重要なのが、法令や公的決定に近い水準です。厚生労働省の令和7年度地域別最低賃金全国一覧では、全国加重平均は1121円となりました。前年の1055円から66円、率にして6.3%の引き上げです。最低賃金に近い層を多く抱える企業では、この数字自体がそのままコスト上昇の客観的根拠になります。都道府県ごとの改定額も開示されているため、地域に応じた説明が可能です。

第三に、業種ごとの公的指標です。建設関連なら国土交通省の公共工事設計労務単価が代表例です。2025年3月適用分では、全国全職種単純平均で前年度比6.0%引き上げ、加重平均値は2万4852円となりました。しかも国交省は、労務単価には事業主が負担すべき必要経費分は含まれておらず、それを下請代金から値引くことは不当行為だと明記しています。公的発注の世界でこうした考え方が定着している事実は、民間取引の交渉でも強い説得材料になります。

第四に、物価全体の環境認識です。総務省統計局の2026年2月CPIでは、生鮮食品を除く総合指数が前年同月比1.6%上昇、生鮮食品とエネルギーを除く総合指数は2.5%上昇でした。労務費転嫁の根拠をCPIだけに置くのは危ういものの、賃上げと値上げが孤立した話ではなく、広い価格上昇局面の一部だと示す補助線にはなります。

値上げ率への落とし込み

公的統計を集めただけでは、要求額にはなりません。実務では、自社の原価構造に落とし込む作業が必要です。労務費転嫁指針の別添である「価格交渉の申込み様式(例)」は、原材料価格、エネルギーコスト、労務費などをコスト要素ごとに分けて記載する形になっています。労務費では、自社だけでなく、自社の発注先やその先の取引先の労務費も考慮するよう明記されています。重要なのは、総額を一括で出すのではなく、費目別に整理することです。

計算の基本は単純です。まず、対象取引で人件費が売上や原価に占める割合を出します。次に、公的統計から妥当な賃上げ率を選びます。たとえば対象業務の労務費比率が40%で、交渉のベンチマークに5%の賃上げ率を採るなら、価格改定の基礎部分は2.0%です。ここに最低賃金改定への対応分、社会保険料や通勤費の増加、再委託先の労務費上昇を重ねていくと、要求額はかなり説明可能な数字になります。

このとき、単一の統計に依存しないことが重要です。たとえば「連合が5%だから5%上げてほしい」では雑です。最低賃金の改定率、地域差、業界別の公的単価、物価動向、自社の労務費比率を重ねて、「なぜこの取引では2.4%なのか」「なぜ別の取引では3.1%なのか」を説明できる状態にする必要があります。取引先が納得しやすいのは、数字の大きさよりも、計算の筋道が通っている提案です。

ここで役立つのが、中小機構の「価格転嫁検討ツール」です。このツールは、商品別や取引先別にコスト高騰前後の収支状況を確認し、目指すべき取引価格を試算できる仕組みになっています。登録不要で使え、仕入れ・材料費、人件費、水道光熱費などを分けて入力できます。公的統計で置いた前提を、このツールや自社の管理会計で価格に翻訳することが、交渉の再現性を高めます。

注意点・展望

労務費転嫁でありがちな失敗は三つあります。第一に、CPIだけで値上げを説明しようとすることです。CPIは生活実感や物価局面の共有には役立ちますが、個別取引の労務費を直接示す統計ではありません。賃金や最低賃金、業種別公的単価と組み合わせて使わないと、交渉材料としては弱くなります。

第二に、会社全体の賃上げ率をそのまま全取引へ転嫁しようとすることです。発注者が知りたいのは、その取引でどれだけ労務費が増えたかであって、会社全体の人件費方針ではありません。だからこそ、コスト費目別の整理と、案件別の労務費比率の把握が欠かせません。数字を細かく分けるほど、値上げ幅はむしろ通しやすくなります。

第三に、交渉を年1回で終わらせることです。公正取引委員会の指針は、定期的なコミュニケーションと交渉記録の双方保管も求めています。最低賃金は秋に変わり、春闘は春に動き、公共工事労務単価や物価統計は随時更新されます。年1回の値上げ交渉では、その変化を追い切れません。四半期ごと、少なくとも半年ごとに、共通データを更新しながら協議する体制のほうが現実的です。

今後は、法改正の運用が効いてくるほど、「値上げを頼みづらい」問題よりも、「どの根拠を持って、どのくらい頼むか」の実務差が開きます。価格転嫁率がなお5割程度にとどまる現状では、単に制度を知っているだけでは不十分です。公表資料を集め、自社原価に落とし込み、費目別に見せる企業ほど、賃上げ原資を確保しやすくなります。

まとめ

労務費転嫁をスムーズにする鍵は、強く主張することではなく、共通の数字で話すことです。公正取引委員会の指針が公表資料ベースを求め、中小企業庁の調査がなお労務費転嫁率50.0%の壁を示すなかで、公的統計は交渉を感情論から外す役割を果たします。春闘5.05%、最低賃金1121円、公共工事労務単価6.0%上昇といった数字は、そのための土台になります。

中小企業にとって大事なのは、「相場より高い値上げを狙うこと」ではありません。自社の労務費比率に応じて、必要な改定幅を客観的に示し、相手の社内決裁が通る形に整えることです。公的統計は、そのための共通言語です。価格転嫁が難しい局面ほど、主張の強さより、数字の設計力が効きます。

参考資料:

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