御手洗冨士夫のキヤノンUSA時代に見る経営哲学
はじめに
キヤノンの御手洗冨士夫会長が日本経済新聞の「私の履歴書」で、キヤノンUSA社長時代の経験を振り返っています。1979年1月、43歳でキヤノンUSAの5代目社長に就任した御手洗氏は、若い経営陣への本社の懸念をよそに、チームワークで困難を乗り越えました。
AE-1の大ヒットで北米一眼レフ市場の販売首位となったキヤノンUSA。その成功と、その後の経営危機をどう乗り越えたのか。23年間に及んだ米国駐在で培われた経営哲学の原点を探ります。
御手洗冨士夫の経歴
創業者一族として
御手洗冨士夫氏は1935年9月23日、大分県に生まれました。伯父の御手洗毅はキヤノンの創業者の一人であり、同社初代社長を務めた人物です。
1961年に中央大学法学部を卒業後、キヤノンに入社。在学中は法曹を目指して司法試験を受験していましたが、断念して伯父の会社に入りました。
23年間の米国駐在
入社からわずか5年後の1966年、御手洗氏はキヤノンU.S.A.に赴任します。以来23年間、米国で過ごすことになりました。平社員として赴任した若者が、現地で社長に昇格するという異例のキャリアを歩むことになります。
特筆すべきは、日本本社での管理職経験がないまま経営者になったという点です。米国での実践的な経験が、その後の合理的な経営手法の基盤を形成しました。
AE-1が変えた北米市場
世界初のマイコン内蔵一眼レフ
1976年4月、キヤノンは世界初のマイクロコンピュータ内蔵一眼レフカメラ「AE-1」を発売しました。テキサス・インスツルメンツ社製の4ビットCPUを搭載し、シャッタースピード優先AE方式を採用した画期的な製品でした。
部品の電子化とユニット化、自動組み立ての導入により、従来の一眼レフカメラより約300点もの部品削減に成功。これにより大量生産が可能となり、他社の同クラスのカメラより2万円近く安い価格設定を実現しました。
「連写一眼」で市場を席巻
コピーライター秋山晶による「連写一眼」のキャッチコピーは大きな話題を呼びました。同時発売の「パワーワインダーA」を装着すれば連写が可能になるという機能は、他社も追随する業界スタンダードとなりました。
キヤノンは世界的に有名なテニスやゴルフ選手を起用した全国ネットワークでのTVコマーシャルキャンペーンを展開。これは日本のカメラメーカーとして初めての試みでした。アメリカでの発売時には、このキャンペーン戦略が大成功を収め、記録的な売上を達成しました。
北米市場で販売首位に
AE-1の成功により、キヤノンは北米の一眼レフカメラ市場で販売首位の座を獲得しました。発売から約1年半後の1977年10月には累計生産台数100万台を突破し、2021年には「未来技術遺産」にも登録されています。
この成功のさなか、1979年1月に御手洗冨士夫氏は5代目のキヤノンUSA社長に就任したのです。
若い経営陣への期待と不安
本社の心配
43歳という年齢でのトップ就任は、当時としても若い人事でした。前任者は「キヤノンの技術の父」と呼ばれた人物で、35ミリカメラや8ミリシネカメラ、複写機の開発を指揮した実績がありました。
日本の本社からは、若い経営陣で大丈夫かという懸念の声もあったとされます。御手洗毅会長(当時)は、甥である御手洗冨士夫氏に対して、厳しい期待を寄せていたと言われています。
チームで挑んだ経営
御手洗氏は、若い経営チームで結束して経営にあたりました。「合宿生活」とも表現されるような濃密なコミュニケーションを通じて、チームとして困難を乗り越えていく姿勢を貫きました。
この経験は、後に「実力主義と家族主義」を旨とする御手洗氏の経営哲学の形成に大きな影響を与えたと考えられます。
アメリカ仕込みの経営哲学
23年間で培った合理性
御手洗氏の経営スタイルは「アメリカ仕込みの合理的経営」と評されます。23年間の米国駐在で身につけた考え方を、後のキヤノン経営にも持ち込みました。
1995年に日本に帰国してキヤノン社長に就任した際には、円高などで財務が悪化していた同社を立て直す手腕を発揮。「選択と集中」を進め、収益性の高い事業構造への転換を図りました。
ビリオンダラーカンパニーへ
キヤノンUSA時代の御手洗氏は、カメラ市場で全米ナンバーワンの座を獲得し、売上高10億ドル企業(ビリオンダラーカンパニー)の仲間入りを果たしました。
現地での実績を積み重ねた御手洗氏は、日本に帰国する前にキヤノン本体の取締役に就任。現地法人の社長から本社経営陣へという、当時としては珍しいキャリアパスを歩みました。
キヤノンの多角化と成長
「右手にカメラ、左手に事務機」
御手洗毅は1967年、「右手にカメラ、左手に事務機」のスローガンを掲げ、キヤノンの多角経営を宣言しました。1970年には国産初の普通紙複写機「NP-1100」を発売し、事務機器市場に本格参入します。
御手洗冨士夫氏がキヤノンUSA社長を務めた1970年代後半から1980年代は、まさにこの多角化が進展する時期でした。カメラで築いた販売網を活用しながら、複写機やプリンターの販売を拡大していく戦略が展開されました。
後継者としての役割
1984年に創業者の御手洗毅が他界すると、キヤノンは新たな時代を迎えます。1995年、御手洗冨士夫氏は従弟の御手洗肇社長の急逝を受けて第6代社長に就任。創業者一族として、経営の舵取りを任されることになりました。
今日のキヤノン経営への示唆
変革を恐れない姿勢
御手洗氏は「悲観は感情から生まれ、楽観は意志から生まれる」という言葉を座右の銘としています。困難な状況でも前向きに取り組む姿勢は、キヤノンUSA時代の経験から培われたものでしょう。
2006年には日本経済団体連合会会長に就任し、財界のリーダーとしても活躍。2012年にはキヤノン社長に6年ぶりに復帰するなど、長年にわたり日本経済界で重要な役割を果たしています。
次世代への継承
キヤノンは現在、医療機器事業など新たな成長分野への投資を進めています。御手洗氏は「事業の大転換は絶対にやり遂げる」と語り、変革への強い意志を示しています。
AE-1で北米市場を制覇した時代から、時代の変化に対応して事業構造を変えてきたキヤノン。その変革の原点には、若きリーダーがチームで困難を乗り越えた米国時代の経験があったのです。
まとめ
御手洗冨士夫氏のキヤノンUSA社長就任は、AE-1の大ヒットで北米一眼レフ市場の首位に立った直後のことでした。若い経営陣への本社の懸念をよそに、チームワークで経営課題を乗り越え、ビリオンダラーカンパニーへの成長を実現しました。
23年間の米国駐在で培った合理的経営の手法と、困難に立ち向かう姿勢は、その後のキヤノン経営の原点となっています。「悲観は感情から生まれ、楽観は意志から生まれる」という哲学は、今日の経営者にも多くの示唆を与えるものでしょう。
参考資料:
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