御手洗冨士夫氏が語るキヤノン米国開拓の原点

by nicoxz

はじめに

日本経済新聞で連載されている「私の履歴書」に、キヤノン会長兼社長の御手洗冨士夫氏が登場しています。御手洗氏は23年間にわたる米国勤務を経験し、13人でスタートしたキヤノンUSAを6400人の大所帯に育て上げた人物です。

連載では、1960年代から1970年代にかけての米国カメラ市場でキヤノンがいかに苦戦し、そしてどのようにして頂点に上り詰めたのかが語られています。当時、圧倒的な存在感を示していたのはコダックであり、ヤシカのような日本メーカーの方がキヤノンより上位にいました。

本記事では、御手洗氏の履歴書を手がかりに、日本のカメラ産業が世界市場で成功を収めるまでの歴史を振り返ります。

1960年代の米国カメラ市場

コダックが君臨した時代

御手洗氏が渡米した1966年当時、米国カメラ市場はコダック社が圧倒的なシェアを誇っていました。コダックは「あなたはボタンを押すだけ、あとはKodakがやります」というキャッチコピーで知られ、1970年代にはフィルムシェア90%、カメラシェア85%とアメリカ市場を支配していました。

コダック社の強さの秘訣は、フィルムとカメラの両方を手掛けるビジネスモデルにありました。安価なカメラを普及させ、フィルムや現像サービスで収益を上げる戦略です。一般消費者にとって、カメラといえばコダックという時代だったのです。

キヤノンは最下位からのスタート

高価な一眼レフカメラを主力とするキヤノンは、当時の米国市場で最下位クラスでした。日本国内ではトップ争いを繰り広げていましたが、米国での知名度は低く、販路であるカメラ専門店は競合他社に押さえられていました。

御手洗氏はコロンビア大学の英語講習に通いながら仕事をこなす日々を送っていました。ある晩、タクシー運転手に勤務先を聞かれ「キヤノン」と答えたところ、運転手は「あんないい会社に」と驚いた様子でした。しかし、その会話には齟齬がありました。運転手はキヤノンではなく、タオルで有名な「キャノン・ミルズ社」と勘違いしていたのです。

ヤシカという存在

当時、米国市場で存在感を示していた日本メーカーの一つがヤシカでした。ヤシカは1949年に長野県で創業し、1950年代から1960年代にかけて国内販売・輸出ともに首位に立った時期もありました。

1957年にはニューヨークに米国販社を開設し、積極的に海外市場に進出しています。「エレクトロ35」シリーズをはじめとしたレンジファインダーカメラや、二眼レフカメラが世界的に高い評価を受けていました。

御手洗冨士夫という経営者

米国勤務23年の経験

御手洗冨士夫氏は1935年9月23日、大分県に生まれました。中央大学法学部を卒業後、1961年にキヤノンに入社。伯父の御手洗毅は創業者の一人でした。

1966年6月、30歳の時に米国へ渡航し、キヤノンUSAに出向しました。以来23年間にわたり米国で勤務し、1979年にはキヤノンUSA社長に就任します。この長い海外経験が、後の経営スタイルの基盤となりました。

アメリカ仕込みの合理的経営

御手洗氏は「終身雇用の実力主義」を掲げ、日本流の終身雇用による集団結束力と、米国流の競争原理を両立させる経営を実践してきました。

1995年に社長就任後は、キャッシュフロー経営を導入し、事業の「選択と集中」を推進しました。液晶ディスプレイやパーソナルコンピュータ事業から撤退する一方、利益率の高いプリンター、カメラ、半導体製造装置に経営資源を集中させました。

キヤノンの米国市場開拓

直販体制への挑戦

キヤノンが米国市場で躍進できた背景には、直販体制の構築がありました。従来、日本のカメラメーカーは現地の問屋や代理店を通じて販売するのが一般的でした。

しかし、御手洗氏はキヤノンUSAで直接販売網を整備し、流通の効率化を図りました。これにより、市場のニーズを直接把握し、迅速な対応が可能になったのです。

AE-1の大ヒット

キヤノンの米国市場での転機となったのが、1976年に発売された「AE-1」でした。世界初のマイクロコンピュータ内蔵一眼レフカメラとして登場したAE-1は、自動露出機能により初心者でも簡単に美しい写真が撮れることを売りにしました。

「AE-1」は大ヒットを記録しました。それまで年間60万台程度だった一眼レフ市場で、AE-1だけで累計100万台以上を販売しました。一般消費者がカメラ販売店に「AE-1」を求めて押し寄せ、キヤノンは米国市場でトップに躍り出たのです。

ロサンゼルス五輪での躍進

1984年のロサンゼルスオリンピックは、キヤノンにとって大きな飛躍の機会となりました。キヤノンがカメラのオフィシャルスポンサーの権利を獲得し、「New F-1」が公式カメラに選ばれたのです。

この年、キヤノンUSAは売上高10億ドルに到達し、大企業の仲間入りを果たしました。13人でスタートしたキヤノンUSAは、御手洗氏が帰国する頃には6400人の大所帯に成長していました。

日本カメラ産業の黄金時代

輸出8割を占めた時代

1970年代後半から1980年代にかけて、日本のカメラ産業は輸出比率が約8割に達していました。カメラは日本の輸出を支える花形産業だったのです。

キヤノンは1967年に輸出比率が50%を超え、国際展開を加速させていました。1961年に発売した「キヤノネット」は、セレン光電池による自動露出機構を持ちながら普及価格を実現し、ベストセラーとなりました。

技術革新の連続

キヤノンは「右手にカメラ、左手に事務機」という多角化戦略を1960年代後半に打ち出しました。1970年には国産初の普通紙複写機「NP-1100」を発売、1971年には最高級一眼レフ「キヤノンF-1」を投入しています。

光学技術を核としながら、事務機やプリンターにも展開するキヤノンの多角化戦略は、現在のキヤノングループの基盤となっています。

注意点・展望

コダックの衰退から学ぶ教訓

かつて世界最大の写真用品メーカーだったコダックは、2012年に経営破綻しました。皮肉なことに、コダックは1975年に世界初のデジタルカメラを開発していました。しかし、フィルム事業への悪影響を恐れて商業化を見送り、デジタル化の波に乗り遅れたのです。

キヤノンが現在もカメラ業界のトップメーカーであり続けている背景には、技術革新への投資と市場変化への適応があります。御手洗氏が実践した「選択と集中」の経営は、変化の激しい時代を生き抜く知恵といえます。

経営者のグローバル経験の重要性

御手洗氏の23年に及ぶ米国勤務は、日本企業の経営者としては異例の長さです。この経験が、キヤノンのグローバル展開を支える基盤となりました。

2006年には私立大学出身者として初めて日本経済団体連合会会長に就任し、「財界総理」と呼ばれる立場で日本経済界をリードしています。現場を知る経営者の視点は、日本企業の国際競争力を高める上で貴重な財産です。

まとめ

御手洗冨士夫氏の「私の履歴書」は、日本のカメラ産業が世界市場で成功を収めるまでの挑戦の歴史を物語っています。コダックが圧倒的なシェアを持ち、ヤシカさえも上位にいた時代に、キヤノンは最下位からのスタートでした。

しかし、直販体制の構築、AE-1に代表される革新的製品の投入、そしてオリンピックスポンサーによるブランド強化によって、キヤノンは米国市場でトップに上り詰めました。

御手洗氏の経験は、グローバル市場で競争する日本企業にとって、今なお示唆に富んでいます。長期的な視点での市場開拓と、変化への柔軟な対応が、持続的な成長の鍵となることを教えてくれます。

参考資料:

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