日経「私の履歴書」70年の記録がデジタル化:歴史的資料の復刻が始まる

by nicoxz

はじめに

日本経済新聞の名物連載「私の履歴書」が、70年の歴史を刻む中で新たな展開を迎えています。2026年1月から、過去に掲載された著名人の自伝が電子版で順次公開される復刻プロジェクトがスタートしました。1月は本田宗一郎氏と江戸川乱歩氏の回が復刻され、経営者や政治家、文化人など900人以上が執筆してきた膨大な記録が、デジタルアーカイブとして後世に伝えられることになります。これまで縮刷版や書籍でしか読めなかった貴重な歴史的資料が、誰でもアクセスできるようになる意義は大きく、ビジネスパーソンや研究者にとって価値ある知の宝庫が開かれます。

「私の履歴書」70年の歴史

1956年の創刊から現在まで

「私の履歴書」は、1956年(昭和31年)3月1日に日本経済新聞朝刊最終面(文化面)で連載が開始されました。各界の著名人が、出生から連載時に至るまでの半生を描く「履歴書風の自伝」という独特なスタイルで、70年にわたり読者に愛されてきました。

第1回は社会党書記長の鈴木茂三郎氏で、3月1日から7日にかけて連載されました。当初は連載期間が1週間と短かったのですが、その後次第に長くなり、1987年(昭和62年)からは、毎月1か月間(1日から末日)にわたって1人を取り上げるスタイルが定着しました。

2026年1月の御手洗冨士夫氏(キヤノン会長兼社長CEO)に至るまで、経営者や政治家、文化人ら900人以上が執筆してきました。顔ぶれは、経済人のみならず、政治家、文化人、学者、芸能人、アスリートなど多岐にわたり、日本の戦後史を彩った人々の生の声が記録されています。

題字の手書きという伝統

「私の履歴書」という題字を登場人物が手書きするようになったのは、1978年1月連載の元首相・大平正芳氏(当時は自民党幹事長)からです。この手書き題字は、執筆者の個性を表す要素として定着し、連載の顔となっています。

デジタルアーカイブ化の背景と意義

電子版での公開は約130人にとどまっていた

900人以上が執筆してきた「私の履歴書」ですが、これまで日経電子版で公開できているのは約130人にとどまっていました。つまり、全体の約14%しかデジタル化されていなかったことになります。残りの約770人分の貴重な記録は、縮刷版や書籍でしか読むことができませんでした。

縮刷版は図書館などに所蔵されていますが、物理的なアクセスが必要であり、検索性も低いため、利用には大きな制約がありました。また、紙媒体は経年劣化のリスクもあり、長期的な保存という観点からもデジタル化の必要性が高まっていました。

創刊150周年を機に転載許諾を取得

日本経済新聞は創刊150周年を機に、過去の「私の履歴書」の転載許諾を取得し、電子版での公開を順次進めることを決定しました。これは、歴史的資料としての価値を将来世代に継承するとともに、ビジネスパーソンや研究者の学びの機会を拡大する取り組みです。

転載許諾の取得は、執筆者本人やその遺族、関係者との調整が必要であり、900人以上分の許諾を得ることは膨大な労力を要する作業です。それでも日本経済新聞がこのプロジェクトに取り組む背景には、知的資産としての「私の履歴書」の価値を広く社会に還元したいという意図があります。

デジタルアーカイブの社会的重要性

デジタルアーカイブは、社会が持つ知や、文化的・歴史的な資源等の記録を未来へ伝える役割を果たします。教育、研究、観光、地域活性化、防災、ヘルスケア、ビジネスなど、様々な分野における有形無形の資源を利活用するための基盤となっています。

新聞のデジタル化は2000年頃から進められてきましたが、過去の紙面をデータベース化して検索可能にすることで、埋もれがちだった記事や投書の価値が再発見されるようになりました。特に「私の履歴書」のような連載は、断片的に読むのではなく、全体を通して読むことで初めて執筆者の人生観や経営哲学が理解できるため、デジタルアーカイブ化の意義は極めて大きいと言えます。

1月復刻版:本田宗一郎氏と江戸川乱歩氏

本田宗一郎氏(1962年8月掲載、全25回)

2026年1月の復刻版第1弾として公開されたのは、ホンダ創業者の本田宗一郎氏の回です。1962年8月に25回にわたって連載されたこの自伝は、小さな自動車修理工場から世界的な自動車メーカーへとホンダを成長させた経営者の波乱万丈の半生が語られています。

本田宗一郎氏の「私の履歴書」には、技術者としてのこだわり、失敗から学ぶ姿勢、のれん分けによる独立支援など、現代の経営者にも通じる経営哲学が詰まっています。特に「第6回 のれんわけ」では、社員の独立を支援する姿勢が語られており、人材育成に対する先進的な考え方が示されています。

江戸川乱歩氏(1956年5月掲載、全6回)

もう一つの復刻版は、日本探偵小説の祖として知られる江戸川乱歩氏の回です。1956年5月3日から10日にかけて6回連載されたこの自伝は、「私の履歴書」が始まった初期の作品であり、連載期間が短かった時代の貴重な記録です。

江戸川乱歩氏の自伝では、会社員や新聞記者など様々な仕事を経て作家になるまでの経緯が語られています。「アルバイト学生」「いじめられっ子」といった各回のタイトルからは、後に大作家となる人物の若き日の苦悩と模索が垣間見えます。文化人の「私の履歴書」は、経営者とはまた異なる人生の軌跡を示しており、多様な生き方の参考となります。

今後の復刻予定

2月には田中角栄氏と山田耕筰氏、3月には平塚らいてう氏と出光佐三氏など、各界を代表する人物の「私の履歴書」が順次公開される予定です。政治家、作曲家、女性解放運動家、実業家と、実に多彩な顔ぶれが揃っています。

ビジネスパーソンにとっての価値

経営者視点を学ぶ教材

「私の履歴書」は、ビジネスパーソンにとって経営者視点を学ぶ格好の教材です。経営者が書いた自伝を読むことは、組織の動かし方、顧客との関係、収益構造など幅広い知識を得ることにつながります。また、物事を経営者的視点で考える習慣が身につき、ビジネス以外の場面でも役立ちます。

波乱に満ちた自伝は、経営の神髄、人生の粋を語る格好の読み物であり、経済史・産業史の生々しい証言としても貴重です。石油危機からバブル崩壊、リーマン・ショック、デジタル革命まで、幾多の窮地と対峙した悪戦苦闘の記録は、再生と成長へのヒントを与えてくれます。

困難への対処法と視野の拡大

功成り名を遂げた人々の「私の履歴書」には、必ずと言っていいほど挫折や失敗のエピソードが含まれています。それらをどう乗り越え、どう糧にしたのかを知ることは、自身が困難に直面したときの対処法を学ぶことにつながります。

また、幅広い視野が養える上に、仕事に行き詰った時に見方を変えることに役立ち、アイデアが必要な時に新しいアイデアを生み出す手助けとなります。異なる業界、異なる時代の経営者の思考法に触れることで、固定観念から脱却し、創造的な発想が生まれやすくなるのです。

研究資料としての価値

「私の履歴書」は、学術研究の資料としても極めて価値が高いコンテンツです。経営学、経済史、社会学、心理学など、様々な分野の研究者が、過去の「私の履歴書」を分析することで、時代の変遷や社会構造の変化を読み解くことができます。

これまで縮刷版でしか読めなかった記録がデジタル化され、検索可能になることで、研究の効率が飛躍的に向上します。特定のキーワードで横断的に検索することで、複数の執筆者に共通するテーマや、時代による価値観の変化を定量的に分析することも可能になります。

デジタル化の課題と今後の展望

転載許諾の継続的な取得

復刻プロジェクトの最大の課題は、約770人分の転載許諾を継続的に取得していくことです。執筆者本人が存命の場合もあれば、すでに故人となっている場合も多く、遺族や権利継承者との調整が必要になります。

また、執筆者によっては、当時の記述内容が現代の基準で見ると不適切と判断される可能性もあり、公開にあたっての慎重な判断が求められます。歴史的資料としての価値を保ちつつ、現代の読者への配慮をどうバランスさせるかは、デジタルアーカイブ全般に共通する課題です。

検索性とアクセシビリティの向上

デジタル化の利点は、検索性の高さとアクセシビリティの向上にあります。今後、全文検索機能の充実や、執筆者の業種・時代・テーマ別の分類、関連記事へのリンクなど、利便性を高める機能が追加されることが期待されます。

また、音声読み上げ機能や、視覚障害者向けのアクセシビリティ対応など、あらゆる人々が利用できる形での提供も重要です。国立国会図書館の「資料デジタル化基本計画2021-2025」でも、障害者を含むあらゆる人々の利用可能性の向上が目標として掲げられています。

文化的資産の保存と継承

2011年の東日本大震災を契機に、災害から文化財や古図書などの情報を守るためにデジタルアーカイブ化する動きが活発化しました。紙媒体は災害や経年劣化のリスクがあるため、デジタル化することで、将来的にもオリジナル資料の物理的な損傷を最小限にすることが可能になります。

「私の履歴書」は日本のビジネス史、文化史を語る上で欠かせない一次資料であり、その保存と継承は国家的な文化政策としても重要です。日本経済新聞による復刻プロジェクトは、民間企業による文化的資産の保存と公開の先進的な事例として評価できます。

まとめ

日本経済新聞の「私の履歴書」復刻プロジェクトは、70年にわたる900人以上の著名人の記録をデジタルアーカイブとして後世に伝える重要な取り組みです。これまで約130人分しか電子版で読めなかった貴重な自伝が、創刊150周年を機に順次公開されることで、ビジネスパーソンや研究者にとっての学びの機会が大きく拡大します。

1月に復刻された本田宗一郎氏と江戸川乱歩氏の回を皮切りに、今後も各界を代表する人物の自伝が公開される予定です。経営者視点を学び、困難への対処法を知り、時代の変遷を読み解く資料として、「私の履歴書」のデジタルアーカイブは計り知れない価値を持ちます。

転載許諾の取得、検索性の向上、アクセシビリティの確保など、課題は残されていますが、文化的資産を保存し、広く社会に還元するという観点から、このプロジェクトの意義は極めて大きいと言えます。デジタル技術によって、過去の知恵と経験が現代に蘇り、未来世代へと継承されていくのです。

参考資料:

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