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by nicoxz

御手洗冨士夫氏の履歴書に見るキヤノンUSAの成長と帰国

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はじめに

日本経済新聞で連載中の「私の履歴書」で、キヤノン会長兼社長の御手洗冨士夫氏が自身のキャリアを振り返っています。第19回となる今回は、キヤノンUSAの売上が10億ドルを突破した後、23年間のアメリカ生活を終えて日本に帰国する場面が描かれています。

御手洗氏は帰国に際して社員から「魂は日本人」という送別の辞を受け、6400人の社員から「勝利」を象徴する絵画を贈られたといいます。本記事では、御手洗氏のアメリカ時代の功績と、その経験が後のキヤノン経営にどう活かされたかを解説します。

御手洗冨士夫氏のキャリア

キヤノン入社からアメリカ赴任へ

御手洗冨士夫氏は1935年、大分県に生まれました。中央大学法学部を卒業後、1961年に伯父の御手洗毅氏が創業者の一人であったキヤノンに入社しました。在学中は法曹を目指して司法試験を受験しましたが、断念しています。

入社後はレンズ工場での生産に1年半、経理に2年、カメラの国内営業に2年携わりました。1966年、当時社長だった御手洗毅氏から「ニューヨークに行け」との声がかかり、30歳で渡米しました。キヤノンが本格的に米国市場を開拓する時期でした。

23年間のアメリカ生活

御手洗氏は1966年から1989年まで、30歳から53歳までの23年間をアメリカで過ごしました。平社員として赴任しましたが、現地でキヤノンUSAの社長に昇格し、日本に帰国する前にキヤノン本体の取締役にも就任しました。

後半の10年間、つまり1979年から1989年まではキヤノンUSAの社長を務めました。この間、同社を10億ドル企業へと成長させ、アメリカ市場でのキヤノンブランドの地位を確立しました。

キヤノンUSAの成長

売上10億ドル突破の意味

キヤノンUSAが売上10億ドル(当時のレートで約1200億円)を突破したことは、日本企業のアメリカ進出における一つの金字塔でした。1960年代に進出した日本企業が、現地法人だけで10億ドル規模に成長するケースは多くありませんでした。

御手洗氏がUSA社長を務めた1980年代は、日米貿易摩擦が激化した時期でもあります。自動車や半導体で日本企業への風当たりが強まる中、キヤノンは現地生産を拡大し、アメリカ経済に根ざした企業として認知されていきました。

バージニア工場と新規事業の模索

「私の履歴書」によれば、キヤノンUSAはバージニア州に20万坪の敷地を持つ工場を新設していました。売上10億ドル突破後も順調に成長を続け、工場には未利用のスペースが多く残っていたといいます。

御手洗氏はその土地を使って次のビジネスを始められないかと考えました。注目したのは、西海岸のシリコンバレーです。当時すでにハイテク企業の集積地となっており、新しい技術の潮流を調べていたところ、本社の賀来龍三郎社長から電話がかかってきて「日本に戻ってくれ」と言われたのです。

送別会での「魂は日本人」

帰国に際して、御手洗氏は社員から「魂は日本人」という送別の辞を受けました。23年間アメリカで過ごし、アメリカ式の経営を実践してきましたが、根底にある日本人としてのアイデンティティを社員たちは見抜いていたのでしょう。

また、6400人のキヤノンUSA社員から「勝利」を象徴する絵画を贈られたといいます。10億ドル企業への成長という「勝利」を共に成し遂げた仲間たちからの餞別でした。

アメリカで培った経営哲学

「終身雇用の実力主義」

御手洗氏はアメリカ仕込みの合理的経営をキヤノン経営に持ち込みました。その特徴は「終身雇用の実力主義」という概念に集約されます。

日本流の終身雇用による運命共同体としての集団結束力の強化と、米国流の競争の中から個々人の力を引き出す経営の両立を目指しました。アメリカの良さを取り入れながらも、日本企業の強みを捨てないという姿勢です。

キャッシュフロー経営への転換

1995年に社長に就任した御手洗氏は、キャッシュフロー経営を導入しました。事業の「選択と集中」を掲げ、液晶ディスプレイ、光ディスク、パーソナルコンピュータ事業から撤退し、経営資源を利益率の高いプリンター、カメラ、半導体製造装置などに集中させました。

また、セル生産方式を導入し、8400億円を超える負債を事実上完済しました。キヤノンは日本有数のキャッシュフローを持つ企業へと財務体質を改善しました。

1989年という転機

賀来龍三郎社長からの帰国命令

御手洗氏に帰国を命じたのは、当時キヤノン社長だった賀来龍三郎氏でした。賀来氏は「キヤノン中興の祖」と呼ばれる経営者で、グローバル企業構想を打ち出し、カメラ中心の光学メーカーだったキヤノンを複写機やプリンターなどの情報機器メーカーに脱皮させた人物です。

1989年、賀来氏は社長から会長に就任し、後任として御手洗肇氏が社長に就きました。御手洗冨士夫氏の帰国は、次世代の経営体制を見据えた人事でした。

「第二の創業」の時代

1989年は、キヤノンにとって重要な転換点でした。創立50周年を迎えた1988年、次の半世紀に照準を合わせた「第二の創業」を発表し、「共生」を企業理念としたグローバル企業構想をスタートさせていました。

円高と貿易摩擦を受けて、海外現地生産による国際的水平分業戦略を推進することは急務でした。アメリカで23年間の経験を積んだ御手洗冨士夫氏は、この新たな時代を担う人材として期待されていたのです。

注意点・今後の展望

管理職経験なき経営者の強みと限界

御手洗氏は平社員でアメリカに赴任し、現地で社長にまで昇格しました。日本本社での管理職経験がないまま経営者になったことは、既存の社内慣行にとらわれない改革を可能にした反面、日本の組織文化への理解に課題があったとの指摘もあります。

長期政権の功罪

御手洗氏は1995年に社長に就任して以来、会長、社長、会長兼社長と役職を変えながらキヤノンの経営トップに君臨してきました。2024年には89歳で3度目の社長就任という異例の事態となり、後継者育成の難しさも浮き彫りになっています。

アメリカで培った合理的経営は、デジタルカメラやプリンターの全盛期にキヤノンの成長を牽引しました。しかし、スマートフォンの普及でカメラ市場が縮小する中、次の成長エンジンをどう見つけるかが課題となっています。

まとめ

御手洗冨士夫氏の「私の履歴書」第19回は、キヤノンUSA社長として売上10億ドルを達成した後、23年間のアメリカ生活を終えて帰国する場面を描いています。「魂は日本人」という送別の辞と6400人からの「勝利」の絵画は、御手洗氏がアメリカで築いた功績と信頼の証でしょう。

アメリカで培った「終身雇用の実力主義」という経営哲学は、その後のキヤノン経営を大きく変えました。日米両国の経営のエッセンスを融合させた御手洗氏のアプローチは、グローバル化時代の日本企業経営に一つの示唆を与えています。

参考資料:

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