日本人の「移動格差」、年収と旅行経験に深い関連
はじめに
日本人はあまり移動しない——。この事実が、社会学的な調査データによって改めて浮き彫りになっています。生涯の引っ越し回数は約3〜4回、パスポート保有率は17%台にとどまり、年収によって旅行経験に大きな差があることが明らかになりました。
国際大学グローバル・コミュニケーション・センター研究員の伊藤将人氏が著した『移動と階級』(講談社現代新書)は、「移動できる人」と「移動できない人」の格差を独自調査データから分析し、現代日本における「移動格差」の実態に迫っています。
本記事では、日本人の移動実態と、それが示す社会的格差について解説します。
日本人の移動実態
生涯引っ越し回数は約3〜4回
国立社会保障・人口問題研究所の「第8回人口移動調査」(2016年)によると、日本人の平均引っ越し回数は3.04回です。54歳までの平均では4.23回となっており、一生を通じて4回程度の引っ越しを経験する人が多いとされています。
過去5年間の移動理由として最も多いのは「住宅を主とする理由」で35.4%を占めます。「職業上の理由(就職、転職、転勤など)」は14.1%から12.7%に減少傾向にある一方、「親や子との同居・近居」は6.4%から7.0%へと増加しています。
同じ場所に住み続ける傾向が強まる
2016年調査では、5年前の居住地と現住所が異なる人の割合は22.4%でした。2011年は24.7%、2006年は27.7%と、10年間で着実に減少しており、同じ家に長く住み続ける傾向が強まっています。
転勤を敬遠する傾向も顕著で、若い世代を中心に「転勤のない働き方」を求める声が増えています。これは働き方の多様化とともに、地域に根ざした生活を重視する価値観の変化を反映しています。
パスポート保有率は17.5%
外務省の発表によると、2024年末時点で有効なパスポートの累計は2,164万冊、保有率は17.5%にとどまりました。これは6人に1人の水準であり、米国(約50%)、韓国(約40%)、台湾(約60%)と比較しても著しく低い数字です。
2010年代には22〜24%程度で推移していた保有率が大きく低下した背景には、円安による海外旅行コストの上昇、コロナ禍で途切れた渡航習慣、そして「国内旅行でも十分楽しめる」という意識の広がりがあります。
旅行大手JTBの調査では、「海外旅行に行かない理由」として「旅行費用が高い」(33.6%)、「家計に余裕がない」(26.4%)、「円安だから」(24.4%)が上位を占めました。
年収と移動の深い関係
国内旅行にも格差
伊藤将人氏の調査によると、過去1年以内に居住都道府県外への旅行経験がない人の割合は、年収によって大きく異なります。
- 年収600万円以上:18.2%
- 年収300万〜600万円未満:30.7%
- 年収300万円未満:45.6%
年収600万円以上の層と300万円未満の層では、約27ポイントもの差が存在しています。年収300万円未満の人の半数近くが、過去1年間に県外旅行を経験していないのです。
移動手段にも格差
自家用車、タクシー、新幹線、飛行機を「利用したことがない」人の割合を調査したところ、4つの移動手段すべてにおいて、年収が低いほど利用経験がない人の割合が高いという結果が出ました。
特に自家用車については、日本自動車工業会の調査(2024年)によると、低所得層では56.7%の世帯しか車を保有しておらず、約半数の世帯は自家用車社会の恩恵を十分に受けられていません。公共交通機関が発達した都市部はともかく、地方では車がないと日常生活にも支障をきたすケースがあります。
「移動できない」という主観的認識
伊藤氏の調査では、約半数の人が「自分は自由に移動できない人間だ」と感じていることも明らかになりました。5人に1人は移動の自由さに満足しておらず、3人に1人が他人の移動を「羨ましい」と思っているといいます。
移動の格差は、単に経済的な問題だけでなく、心理的な「閉塞感」にもつながっている可能性があります。
移動格差の社会学的意味
「移動階級社会」の出現
イギリスの社会学者マイク・サヴィジをはじめとする研究者たちは、現代社会においてエリート階級が都市を物質的にも社会的にも作り替え、自由に移動できることを指摘してきました。
伊藤氏は日本においても「移動格差(mobility gap)」が存在することを実証的に示し、「移動階級社会」という概念を提示しています。通勤・通学、買い物、旅行、引っ越しなど、日常的な移動から人生を左右する移住まで、移動の自由度が社会的地位と密接に関連しているのです。
アンダークラスの拡大
日本では格差拡大が進み、階級の固定化が指摘されています。平均年収186万円、男性未婚率66.4%という「アンダークラス」と呼ばれる下層階級が約930万人に達し、2025年には1,000万人を突破するとの見方もあります。
移動できないことは、新しい仕事の機会や人間関係の構築、視野の拡大といった「上昇」のチャンスを逸することにもつながります。移動格差は、社会階層の固定化を加速させる一因となっている可能性があります。
勤務地選択と年収
Job総研の「2025年 人口移動の実態調査」によると、全体の70.2%が「今仕事をするなら1都3県(東京・神奈川・埼玉・千葉)を選択する」と回答しています。理由として「給与が高くなる」「仕事の選択肢が多い」が上位に挙げられました。
高収入を得るためには都市部への移動が必要とされる構造があり、移動できない人は経済的機会も限定されるという循環が生まれています。
注意点・今後の展望
地方移住への関心は高まる
一方で、若い世代を中心に地方移住への関心は高まっています。内閣官房のアンケート調査では、20〜29歳の若年層は地方移住を「計画している」と答えた人が全年齢層の中で最も高い割合を示しました。
移住を検討する理由は「豊かな自然環境があるため」が54.8%と突出しており、リモートワークの普及や価値観の多様化により、都市以外の選択肢を真剣に検討する人が増えています。
格差解消に向けて
伊藤氏は著書の中で、移動格差解消に向けた「5つの方策」を提案しています。移動の機会均等を実現するためには、経済的支援だけでなく、公共交通機関の整備、情報へのアクセス改善、移動に対する社会的認識の変革など、多角的なアプローチが必要です。
ジェンダーと移動
移動格差にはジェンダーの問題も絡みます。育児や介護の負担が女性に偏りがちな現状では、女性の移動の自由度が制約されるケースも少なくありません。移動の平等は、ジェンダー平等とも深く結びついた課題です。
まとめ
日本人の引っ越しは生涯約3〜4回、パスポート保有率は17%台という数字は、「移動しない国民」としての特徴を示しています。しかしより深刻なのは、年収によって移動経験に大きな差があるという「移動格差」の存在です。
年収300万円未満の人の約半数が過去1年間に県外旅行を経験しておらず、移動手段の利用経験も年収と相関しています。移動の自由度は社会階層と密接に関連し、格差の固定化を加速させる要因となりかねません。
円安や物価高による海外旅行のハードル上昇、同じ場所に住み続ける傾向の強まりなど、日本人の移動を巡る環境は変化しています。一人ひとりの移動の選択肢を広げるためには、経済的支援と社会インフラの整備、そして「移動」の価値についての再考が求められています。
参考資料:
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