御手洗冨士夫氏の私の履歴書に学ぶキヤノン下丸子工場とモノづくりの原点
はじめに
日本を代表する精密機器メーカー・キヤノンの会長兼社長CEOを務める御手洗冨士夫氏が、日本経済新聞の連載「私の履歴書」で自身のキャリアを振り返っています。2026年1月10日掲載の第9回では、1961年の入社直後に配属された下丸子工場での体験が語られました。ベルトコンベヤーでの組立作業に追われ、女性の先輩に助けられた新入社員時代。この原体験が、後に23年間の米国勤務を経て、世界的企業のトップとして「終身雇用の実力主義」を掲げる経営者へと成長する礎となりました。本記事では、御手洗氏のキャリアの原点となった下丸子時代と、キヤノンのモノづくりの歴史を深掘りします。
御手洗冨士夫氏の経歴と下丸子工場との出会い
法曹から実業家への転換
御手洗冨士夫氏は1935年9月23日に大分県南海部郡蒲江町(現・佐伯市)に生まれました。中央大学法学部在学中は法曹を目指して司法試験を受験していましたが、これを断念し、1961年3月の卒業とともに伯父の御手洗毅氏が創業者の一人であったキヤノンに入社しました。
下丸子本社・工場との出会い
入社前、御手洗氏はキヤノンへの入社に躊躇していました。しかし、下宿先の同居人で生産技術部に勤務する社員が工場を案内してくれたことが転機となります。東京都大田区の下丸子にある本社・工場を実際に目にした御手洗氏は、工場の規模の大きさと社員が整然と働く様子に感銘を受けました。これが、キヤノンへの入社を決意する重要な契機となったのです。
組立第二課への配属
入社後、御手洗氏は下丸子工場の組立第二課に配属されました。そこでの最初の仕事は、当時大人気だったコンパクトカメラ「キヤノネット」用レンズの組み立てでした。初めてベルトコンベヤーの横に座った御手洗氏は、すぐに現実の厳しさに直面することになります。
キヤノネット時代の下丸子工場とモノづくりの現場
キヤノネットの爆発的ヒット
キヤノネットは1961年1月に発売されたキヤノン初の大衆向けコンパクトカメラです。距離計連動、シャッター速度優先AE機構を搭載しながら18,800円という破格の価格設定が話題を呼びました。これはキヤノンの社員たちが自分たちの月給で買えるカメラを望んだことから実現した価格でした。
発売後、在庫は数時間で完売し、社会現象となるほどの爆発的な人気を博しました。発売から2年半で100万台が販売され、EEカメラブームを引き起こしました。大口径レンズ(キヤノンレンズSE45mmF1.9)、セレン光電池によるシャッター速度優先AE、底部トリガー巻上げ方式など、当時としては革新的な機能を備えていました。
下丸子工場の生産体制
このキヤノネットの爆発的な人気を支えたのが、下丸子工場の大量生産体制でした。ベルトコンベヤーを使った組立ラインは、1分間に1.2メートルの速度で動き、各作業者には正確さとスピードの両立が求められました。御手洗氏が経験したレンズ組立工程も、この大量生産システムの一部だったのです。
ベルトコンベヤーでの挫折と成長
「私の履歴書」によれば、御手洗氏は初めてベルトコンベヤーの横に座った際、担当する作業が間に合わず、たちまち仕掛かり品の山ができてしまいました。その様子を見かねた女性の先輩が昼休みに片付けてくれたというエピソードが語られています。しかし、慣れてくると鼻歌交じりで作業ができるようになったといいます。
この経験は、御手洗氏にとって仕事の基本を学ぶ重要な機会となりました。下丸子時代の上司や先輩は仕事のイロハを教えてくれた恩人であり、後々も役立つ知恵を授かったと振り返っています。
キヤノネットがもたらした業界への影響
カメラ業界の構造変化
キヤノネットの成功は、カメラ業界に大きな影響を与えました。性能に比して非常に安価なカメラの登場は、カメラ業界からダンピングであるという批判の声を招きました。結果として、カメラの低額化・高機能化に付いていけなくなった多くのカメラメーカーが倒産・撤退するきっかけとなったのです。
キヤノンの成長基盤
一方、キヤノンにとってキヤノネットの成功は、大衆市場への本格参入と量産体制の確立を意味しました。1961年には茨城県取手市に取手工場(現・取手事業所)が完成し、生産能力が大幅に拡大しました。下丸子本社・工場と取手工場の二大拠点体制が、キヤノンの飛躍的な成長を支えることになります。
御手洗冨士夫氏の米国での23年間とリーダーシップの形成
平社員からの米国赴任
1966年、入社5年目の御手洗氏はキヤノンU.S.A.に赴任しました。当時のキヤノンUSAはマンハッタンに本社を置くわずか7人の組織で、深刻な財務問題を抱えていました。御手洗氏は平社員として赴任し、現地で経験を積みながら、1979年にキヤノンUSA社長に就任しました。この10年間の社長経験を経て、1989年に日本に帰国します。
アメリカ仕込みの合理的経営
23年間の米国勤務を通じて、御手洗氏はアメリカ流の合理的経営手法を体得しました。帰国前にキヤノン本体の取締役となり、1995年には従弟の御手洗肇氏の死去を受けて第6代社長に就任します。管理職経験のない経営者という異例のキャリアパスでしたが、下丸子での現場経験と米国での実践が、独自のリーダーシップスタイルの基盤となりました。
「終身雇用の実力主義」の実現
社長就任後、御手洗氏はキャッシュフロー経営を導入し、キヤノンの財務体質強化に乗り出しました。「選択と集中」を掛け声に、液晶ディスプレイ、光ディスプレイ、パーソナルコンピュータ事業から撤退し、経営資源を利益率の高いプリンター、カメラ、半導体製造装置等に集中させました。デフレ不況の中、キヤノンは純利益で3期連続の過去最高を達成し、2003年には米ビジネスウィーク誌が選ぶ「世界の経営者25人」に選ばれました。
御手洗氏は「終身雇用の実力主義」を掲げ、日本流の終身雇用による運命共同体としての集団結束力の強化と、米国流の競争の中から個々人の力を引き出す経営の両立を実践しています。キヤノン本社では御手洗氏自身が塾長となって「経営塾」と称する実践教育を行い、若手の教育活動に力を入れています。
下丸子から学ぶモノづくりとキャリア形成の教訓
現場経験の重要性
御手洗氏のキャリアで特筆すべきは、トップ経営者となった後も、下丸子でのベルトコンベヤー作業を「仕事のイロハを学んだ」と肯定的に評価している点です。現場での失敗と成長の経験が、後の経営判断や人材育成の基盤となっていることが分かります。
先輩・同僚からの学び
女性の先輩が昼休みに仕掛かり品を片付けてくれたというエピソードは、チームワークと助け合いの重要性を示しています。御手洗氏が「恩人」と表現する下丸子時代の上司・先輩からの学びは、後の「終身雇用の実力主義」という経営哲学にもつながっています。
グローバルな視野と現場感覚の融合
下丸子での現場経験と23年間の米国勤務という、一見対照的なキャリアが、御手洗氏の経営手法の核心を形成しています。日本的な長期雇用と米国的な成果主義の融合は、グローバル企業のリーダーとして不可欠な視座を提供しました。
現代におけるキヤノンのモノづくりと下丸子の役割
下丸子本社の現在
現在の下丸子には、赤い大きな文字で社名を掲げた銀色のオフィスビルが2棟建っており、キヤノンの本社機能が集約されています。静かで目立たない下丸子の街並みの中で、これらのビルはひときわ存在感を放っています。1950年代初頭、初代社長の御手洗毅氏が下丸子に鉄筋コンクリートの耐火工場を建設して以来、この地はキヤノンの中核拠点であり続けています。
モノづくり拠点の進化
キヤノンのモノづくりは、下丸子から取手、宇都宮、長浜など国内各地の事業所、さらには海外拠点へと広がっています。しかし、下丸子は今もキヤノンの心臓部として、研究開発や経営戦略の策定において重要な役割を担っています。
展望と今後の課題
次世代リーダーの育成
御手洗氏が実践する「経営塾」は、下丸子での自身の経験を次世代に伝える試みと言えます。現場経験とグローバルな視野を兼ね備えた人材の育成は、日本企業全体の課題でもあります。キヤノンの取り組みは、他企業にとっても参考となるモデルケースです。
日本のモノづくりの未来
キヤノネット時代の大量生産から、現代の高付加価値製品へ。日本のモノづくりは大きく変化しましたが、品質へのこだわりと現場の工夫という本質は変わっていません。御手洗氏の履歴書が示すように、現場での地道な努力と学びが、企業の競争力の源泉であり続けています。
デジタル化時代の挑戦
カメラ市場はスマートフォンの普及により大きく縮小しましたが、キヤノンは医療機器、半導体製造装置、産業機器など新たな分野への展開を進めています。下丸子でのモノづくりの精神を受け継ぎながら、デジタル化時代に適応する柔軟性が求められています。
まとめ
御手洗冨士夫氏の「私の履歴書」に登場する下丸子工場でのエピソードは、単なる思い出話ではなく、経営哲学の根幹を示すものです。ベルトコンベヤーでの挫折、先輩からの助け、慣れるまでの努力。これらの経験が、後に23年間の米国勤務を経て、世界的企業のトップとして「終身雇用の実力主義」を掲げる経営者へと成長する礎となりました。キヤノネットという大ヒット商品を支えた下丸子工場の生産現場は、日本のモノづくりの原点であり、現代の経営者にとっても学ぶべき教訓に満ちています。現場経験とグローバルな視野の融合、そして人を育てる文化。これらが、キヤノンの持続的な成長を支える重要な要素であり続けています。
参考資料:
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