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by nicoxz

働きながら本を読む困難さ:三宅香帆と丹羽宇一郎が示す対照的な姿

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はじめに

「労働と文化の両立の困難に、みんなが悩んでいる」。文芸評論家・三宅香帆氏のこの一文は、2024年のベストセラー『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の核心を表しています。一方で、2025年12月に逝去した元伊藤忠商事会長の丹羽宇一郎氏は、実家が書店という環境で育ち、多忙な経営者生活の中でも生涯にわたって読書を続けました。この対照的な2人の存在は、現代日本における労働と文化の関係について重要な問いを投げかけています。本記事では、読書離れの背景と、働きながら文化活動を維持する可能性について考察します。

三宅香帆が指摘する「労働による文化の搾取」

ベストセラーが示した現代人の悩み

三宅香帆氏の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、2024年に新書大賞2025を受賞し、30万部を超える大ヒットを記録しました。この本が多くの人々の共感を呼んだ理由は、働く人々が抱える共通の悩みを言語化したことにあります。著者自身が朝9時半から夜8時過ぎまで働く中で、本をまともに読めなくなった経験から、この問題を掘り下げました。

本書は、日本における労働と読書の歴史を明治時代から2010年代まで遡り、なぜ現代の「労働」が読書という「文化」を搾取する構造になったのかを分析しています。特に2000年代以降、「仕事を通じた自己実現」を称賛する風潮が強まり、人々が全身全霊で働くことを求められるようになった結果、文化活動の時間が失われたと指摘しています。

読書離れの実態と原因

文化庁の2023年調査によると、月に1冊も本を読まない人の割合は62.6%に達し、過去40%台で推移していた時期から大幅に増加しました。読書をしない理由として最も多かったのは「携帯電話・スマートフォンに時間を取られる」(43.6%)で、次いで「仕事や勉強で忙しく時間がない」(38.9%)でした。

興味深いのは、労働時間と読書時間の関係が単純ではないという点です。厚生労働省の2024年調査では、週60時間以上働く長時間労働者の割合は2000年以降減少傾向にあります。しかし、労働時間が減少しても読書時間は増えていません。黒田・山本による研究では、残業削減によって自己啓発時間が増えた効果は40歳以上でわずかに見られる程度で、年間5時間未満という極めて限定的なものでした。

丹羽宇一郎が体現した「働きながら読む」実践

書店の息子から経営者へ

丹羽宇一郎氏(1939年1月29日~2025年12月24日)は、実家が書店を営んでいたという環境で育ち、幼少期から本に囲まれた生活を送りました。名古屋大学法学部卒業後に伊藤忠商事に入社し、1998年に社長、2004年に会長に就任。1999年には約4000億円の不良資産を処理しながら、2001年度には過去最高益を達成するという経営手腕を発揮しました。2010年には民間人初の駐中国大使に就任するなど、多忙を極める人生を送りました。

生涯にわたる読書習慣

丹羽氏は多忙な経営者生活の中でも「読書家」として知られ、自らの経験から読書の選び方や読み方について著書で語っています。彼は読書を「心を豊かにするもの」として位置づけ、脳を活性化させる3つの習慣の1つに挙げていました。

丹羽氏の実践は、三宅氏が指摘する「全身全霊で働くことを求められる現代の労働」とは異なるアプローチを示しています。それは、仕事と文化活動を対立するものとして捉えるのではなく、読書を通じて得た知識や視点が仕事にも生きるという循環を作り出すことでした。

現代社会における解決の方向性

「半身で働く」という提案

三宅氏は著書の中で、「働きながら本が読める社会、全身全霊ではなく半身で働けるサステナブルな社会」を提案しています。この「半身で働く」という概念は、仕事に全てのエネルギーを注ぐのではなく、文化活動や趣味のための余力を残すという考え方です。

ネオリベラリズムと「自己実現としての労働」の再考

1990年代以降、日本社会では「自己実現としての労働」という価値観が浸透しました。しかし、この価値観は裏を返せば、仕事以外の活動に価値を見出しにくくする側面があります。三宅氏の分析によれば、1990年代以降、人々は「知識」よりも「ノイズ」を除去した「情報」を求めるようになり、歴史的文脈や他者の視点を含む書籍が敬遠されるようになったといいます。

働き方改革と文化活動の両立

真の働き方改革には、単に労働時間を削減するだけでなく、人々が文化活動に価値を見出し、それを実践できる社会的環境の整備が必要です。読書習慣を確立した人々の実践例として、「就寝前20分」「夕食後30分」など、日常スケジュールの中に具体的な読書時間を組み込むという方法が推奨されています。

注意点と今後の展望

個人の努力だけでは解決しない構造的問題

読書時間の確保を個人の努力や時間管理の問題として片付けることはできません。三宅氏が指摘するように、これは労働環境と社会構造の問題です。企業や組織が「全身全霊で働く」ことを暗黙の前提としている限り、個人がどれだけ工夫しても限界があります。

デジタルメディアとの共存

スマートフォンが読書時間を奪っているという指摘は重要ですが、デジタルメディア自体が悪いわけではありません。むしろ、疲労した状態で深い思考を要する読書ができず、受動的なSNS閲覧に流れてしまうという労働疲労の問題として捉えるべきでしょう。

文化活動の多様性

読書だけが文化活動ではありません。三宅氏も強調するように、各個人が多様な文化活動を持つことが重要です。ただし、読書には歴史的文脈や他者の視点を深く理解する特性があり、その価値は失われるべきではありません。

まとめ

三宅香帆氏の問題提起と丹羽宇一郎氏の実践は、現代社会における労働と文化の関係について重要な示唆を与えています。読書離れは単なる個人の趣味の問題ではなく、労働環境と社会構造が生み出す構造的課題です。

解決には、労働時間の削減だけでなく、「半身で働く」ことを許容する価値観の転換が必要です。仕事を通じた自己実現だけでなく、文化活動を通じた人間性の涵養も等しく重要であるという認識を、社会全体で共有することが求められています。

丹羽氏のように、多忙な中でも読書を続けられる環境と意識を持つこと。そして三宅氏が提唱するように、そうした実践を個人の特別な努力ではなく、誰もが実現できる社会構造として整備すること。この両方が、真の働き方改革には不可欠です。

参考資料:

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